鏡の中,マネの絵「フォリー=ベルジェールのバー」

東京都美術館
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《フォリー=ベルジェールのバー》


このマネ晩年の傑作に生きて出会える喜びを何と言い表せば良いものか。

只々あな嬉しき哉!

ルーブル美術館近くの裕福な高級官僚の家庭に生まれた生粋のパリジャンであるマネの絵が私は好きだ。特に (1)「草上の昼食」(2)「オランピア」そして今回東京都美術館で目にすることが出来た (3)「フォリー=ベルジェールのバー」の三点は格別なものだ。

(1)と(2)の衝撃性、(3)の不可思議性は尽きせぬ魅力に溢れる。

(1)と(2)はいずれも古典の題材に触発され描かれたが、(1)が発表された当時の1863年、人々に与えた衝撃とスキャンダルは相当深刻なものだったと思われる。更に娼婦そのものを描いた1865年(2)の発表はパリの人々に(1)以上の衝撃を与えた。

 

それは110年後の1975年に初めてマネの画集を見た私にも生涯忘れ得ぬ衝撃となった。

但し「退廃と下品、見るに堪えない」と当時非難された絵画を、私は例えようのない蠱惑に満ちた傑作として観たのであった。

 

今回のこの美術館展に私は2度足を運んだが2度とも入館後直ちに他の絵を後回しにして、この絵(3)の前に立った。美術本でしか見たことがなかったあの絵が、今、目の前にある、巡り合えた奇跡と喜び。ときめきと感動。イギリスにでも行かない限りもう二度とこの絵に会うことはないのだ。全てを逃すまいと眼を凝らしながらも、結局は只々茫然と立ち尽くしていたかのようでもあった。

 

<時代背景>

ギリシャの古典絵画やルネサンスの上品さを重んじるサロン(官展)が美術界を支配していた当時、マネの露骨な生々しさを持った絵画の登場は何程悍ましいものであったのか想像は出来る。素裸の女とスーツ姿の男達のピクニック、ヴィーナスの替わりに現実の娼婦そのものがベッドでポーズを取る絵姿はサロン史上あり得ないことだった。しかし上記述べたように「下品、卑猥、堕落した恥ずべき作品」等轟々たる非難に晒されたマネの絵は皮肉なことに、人々の関心を高め、多くの若い画家達の支持を得ることになった。マネはサロン入選を目指しつつも、その伝統や格式には全く拘泥せず、自ら考える芸術の根幹をサロンへの破壊と挑戦に満ちた確信犯的な出品で試み続けた。

ボードレール、ゾラ、象徴派の詩人マラルメ等文学者もマネの絵の擁護者であった。マネはゾラとマラルメに関して肖像画も描いている。特にマラルメとは晩年まで親交を結んでおり、そのマラルメの雑感によればマネはカフェでは皆をよく揶揄っていたが、カンヴァスに向かうと恰も初めて絵を描くように激情を迸らせていたと云う。

 

マネの生きた時代、特に前半は激動の時代だった。

1848年の2月革命による第二共和制の成立、3年後の崩壊。ナポレオン三世の登場による第二帝政時代を向かえてのパリの大改造、その後のメキシコ遠征の失敗等による恐慌後の普仏戦争の勃発。マネは国民軍に入隊しパリ防衛線に加わった。当初は大国フランスの有利に進むと思われていたこの戦争は、プロイセン軍モルトケの巧みな指揮によりナポレオン3世は捕虜となり、フランスの敗北に終わった。

この頃ノーベルによってダイナマイトが発明され、プロイセン軍の破壊工作等に取り入れられたこともプロイセンの勝利に一役買ったようだ。

ダイナマイトは元々二トログリセリンという不安定な液体であったが、ノーベルは珪藻土を吸着させることで安定化、固形化させる技術に成功した。ノーベルはこの発見により

ダイナマイトの破壊力を増大させ、運搬の不安も解消した。ダイナマイトはギリシア語で"力"を意味する。ノーベルは後に各国へ売付け、工場も各地に製造し莫大な収益を上げる。

 

勝利したプロイセンは多額の賠償金とアルザス・ロレーヌ地方の割譲という屈辱的な条件をフランス政府に提示した。フランスはこの条件を承服できず降伏を拒否した。これによりパリはプロイセン軍により統治され、フランスはヴェルサイユ宮殿で他国であるドイツ帝国戴冠式を強行させられるという更なる屈辱を味わった。これに憤慨したパリの民衆は武装蜂起し、1871年に史上初のプロレタリアート独裁政権パリコミューンを樹立した。血の週間と呼ばれる悲惨な状況を招いた後、ヴェルサイユ政府軍により約2カ月で鎮圧されはしたが、短期間であったにせよプロレタリアート独裁政権の樹立はその後の革命に多大な影響を及ぼすことになる。マネはプロイセンによる祖国の敗北後疎開していたが、パリコミューンの鎮圧以降、疎開先からパリに戻って来た。

1871年以後は第三共和制へと移行し、政事情勢は相変わらず不安定だったが、数年後には芸術の都パリの黄金期、ベルエポックの始まりを迎えようとしていた。

 

<その他好きなマネの絵画>

上記の3点以外でもマネの絵画には傑作が多い。

例えば「鉄道」、「旗で飾られたモニエ通り」、「オペラ座の仮面舞踏会」等多数。

又、余り知られていないが、特に海の光景を描いたものが私は好きだ。

「キアサージ号とアラバマ号の海戦」、「ロシュフォールの逃亡」、「嵐の海」、「月明かりのブーローニュの港」等。中でも歴史を描いたキアサージとロシュフォールはたまらない程素晴らしい。

この中の一つ「嵐の海」は上野の国立西洋美術館が所蔵している。

何故マネの絵はそれ程私を惹き付けるのだろうか? 洗練されたエスプリと浪漫とエロスと多少のダンディズムに満ちているからか…  敬意を込めてボンジュール・ムッシュー・マネなのである。 云うまでもないがマネは印象派には属さない。その後、続々と現れ出る印象派とはもともと次元が違うのだ。

 

<コートールド美術館>

テムズ川沿いに建つ、サマセット・ハウス内にあるロンドン大学に附属するコートールド美術研究所が持つ美術館で1932年に開館した、世界で最も名高い美術研究機関の一つである。繊維商であったサミュエル・コートールドは、その豊かな財力と審美眼により、優れた絵画を収集し、これ等を後に国家イギリスに寄贈した。(3)はこの美術館の修復作業のため、今回日本に貸し出されることになり、我々はこの絵に遇いまみえる幸運を得た。更に「草上の昼食」の下絵も展示されていたことは大きな驚きでもあった。(1)と(2)はオルセー美術館が所蔵しているが、今回展示された「草上の昼食」はオルセー美術館にある作品の下絵と考えられている。構図はほゞ同じであるが、大きさと、何よりも此方を向いている男女の表情と色彩が違うのである。それさえ同じであったらと望むのは余りにも厚かましい願いであろう。

(3)についての様々な分析が行われている。X線撮影による科学的解析の結果、バーメイドの後ろ姿は数回に渡り、右にずらされている。また当時マネがアトリエで描いたと同様のセットを組み、マネがどのような視点で描いたかも再現されている。その結果鏡の配置によりマネの意図した構図が正確に再現された。それによると表面からの視点と右側からの二重の視点が見えてくる。それは鑑賞者を嘲笑うかのようなマネ独特の緻密で巧妙な仕掛だった。こうして鏡を使った難解な描写はほゞ正確に再現されたもののバーメイド、シュゾンの不可解な表情は永遠に解けない謎である。

 

他にこの絵画展で一つ関心を惹く絵があった。それはポール・ゴーギャンのネヴーモア(もう二度と)という奇妙なタイトルが付けられた絵である。大鴉とベッドに横たわる女、その間に居る男女、これもまた謎めいた作品である。

 

 

<フォリー=ベルジェール>

この劇場は1869年フォリー・トレヴィスの名で営業を開始し、3年後に近くにあるベルジェール通りに因み、現在の名に改称された。ダンスショー、アクロバット、象の自転車乗りや像の楽団、サーカス、カンガルーと人間の拳闘、パガニーニの亡霊、蜘蛛タランチュラなど様々な催し物が楽しめた。

これ等当時の催し物の宣伝に使われたレトロ感満載のポスターも展示してあり、実に興味深いものであった。フォリー(狂った、愚かな、酩酊した)・ベルジェール(柔らかい椅子)。人々はそこに集い、社交場と化した劇場はショーを見せ、酒を提供し、また男と女が交渉する場でもあった。香水と化粧の香りが充満した娼婦たちの闊歩する場所。堕落と卑猥、淫靡な囁きがそこかしこに聞かれる回廊施設の一角にそのバーがあった。マネは恐らく青年期に罹ったのであろう梅毒の病状が悪化し左脚の壊疽により痛みに耐えられなくなる迄足繁くそのバーに通った。マネの集大成でもあるこの絵に対する執念は凄まじく、激痛でバーに通えなくなってからはバーメイド、シュゾンその人を自らのアトリエに呼んで、バー同様の配置を設定し作品を完成させた。

作品の舞台となったこの施設は営業形態は変わったものの今でもパリの同じ場所で営業を続けている。

 

<絵画「フォリーベルジェールのバー」>

 死の前年18882年に発表されたマネ晩年の謎に満ちた最高傑作。サロンには入選したがこれも発表当時から様々な物議を交わした作品だった。

後の検証で顕かになったとはいえ、その位置にありようがないモデルの後ろ姿、モデルに話かけているかのようにみえる右側のシルクハットの男、実際の酒の瓶と鏡に映る本数の違い、さりげなく赤い瓶に書かれたマネのサイン、これら実像と鏡に映された虚像との捩じれ。何よりも絵の中心に存在する、物憂げ、アンニュイ、無感動、無表情、ホールに集まる客達を恰も見下しているような様でもあり、喧噪の中の疎外感に茫然と佇んでいるかの様でもある、バーメイド、シュゾンの永遠に説明の付かない謎の表情。

下部の金色の枠から下の鮮やかな色彩で描かれている僅かな実像以外、その殆どが鏡の中の虚像であり、劇場の中の朧げな光景である。照明と中央の大きなシャンデリア、左上のブランコに乗った緑色の足。2階席で何事か囁いているかのように見える男と白いドレスの女、それらの虚像と鮮明に画れた実像部との対称性。モデル、シュゾンはその華やかなパリの虚像を鏡の中に見ているのだろうか。

 鮮やかな色彩のオレンジとクリスタルグラス、水差しグラスの二輪の薔薇の花等は溜息が出るほど美しい。この部分を切りとっても類稀れな静物画の傑作と云えよう。

これ等鮮やかで僅かな実像部とは対照的に、絵の殆どを占める鏡に描かれた、謂わば虚像部の朧げな光景の実像と虚像の中央に佇むバーメイド、シュゾンの表現し難い表情。世界は結して調和しない現実でしかないのだ。

娼婦達の化粧の匂いと堕落の叫び声が漂う場所。オレンジとバーメイドとの象徴性。頽廃、嫉妬、情慾、慾望渦巻く当時のパリの風俗を象徴する光景をマネはそのバーの一角から独特の洒落た感覚と皮肉めいたタッチで見事に一枚の絵に切り取った。観るものに困惑を与えるべく画れた巧妙な仕掛けは人間の肺腑を抉り取り、絡み合わせたように複雑で難解だ。このような精神の懊悩を触発するような晦渋な作品を目にしたとき、我々は妄執を放擲し、マネ渾身の一作を只黙然として鑑賞するしかない。

1882年の絵の完成後、壊疽の進行で左脚を切断。それによる予後不良でマネは翌年1883年51歳で死去した。

 

フランスの思想的、哲学者ミシェル・フーコーは1971年のチェニジアで講演した録音を基にした「マネの絵」という著作の中で次のように述べている。

私を魅了し、私の気を完全に惹いてしまうものがあります。例えばマネです。マネにおいては全てが驚きです。

例えば醜悪さがそうです。醜悪さのもつ攻撃性です。

鑑賞者に可動性を取り返したことのうちに、マネの決定的な豊かさがあります。

「フォリーベルジェールのバー」はマネの全作品を要約して見せてくれるようなものです。マネの絵の最後の一枚でもあり、最も観るものを混乱させる作品の一つです。

それから彼自身が自分の絵画について何も語らなかったというような説明のつかなさですね。マネは絵画においていくつかのことをしましたが、それ等のことに比べれば「印象派」たちは完璧に退行的でした。

マネは絵画的表象の技法と様式を変えた人であり続けています。