御殿山庭園と高杉晋作

今秋(2020年)初めてこの庭園を見に来た。豊かな自然に恵まれた散歩スポットで多くの人達の憩いの場になっている。広さは約2000坪あり、茶室などもある池泉回遊式の和風庭園である。近くには原美術館やマリオットホテル、セルビア大使館がある。

京急蒲田線で品川の次で降りる>f:id:gaganbox:20210113220116j:image

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<北品川は小さな駅である>
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<駅近くの歩道橋を渡るとトラストタワーが近づく。新八ッ山橋を左に曲がり、八ツ山通りを向かう>

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<御殿山トラストシティ>
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<このトラストシティーを入るか、少し先のマリオットホテル内を入れば御殿山庭園に行ける>

<東京マリオットホテル>

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原美術館、緑の庭園の美しい現代美術館として1979年開館した。カフェも併設されていたが、2021年1月11日41年間の歴史に幕を閉じた>

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<池泉回遊式の和風式御殿山庭園、紅葉最盛期の時期の前後は分からなかったが、それなりとでも云おうか>

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<御殿山通り。秋の日の余りの暖かさに桜が僅かに咲いていた>

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御殿山公園はその名の通り、将軍家光の鷹狩りのなどの為に御殿があった。
おそらく寛永の年(1661∼1673)桜の植樹が行われ、享保年間8代将軍吉宗(1716~1745の頃から花見風俗を齎し江戸有数の名所となっていったが、万延元年(1860)の頃井伊直弼により英国、米国、阿蘭陀、仏蘭西の公使館の建設計画が持ち挙がった。
これに対し東海道品川宿からは、御殿山は高台にあり軍事的要衝地であること、桜の名所であること、混雑により品川宿での外夷との問題が起こることなどから計画に憤慨、建設反対の意見書を提出した。しかし幕府は翌年(1861)攘夷派の襲撃に備えるためもあり各国外国との建設合意を受諾し、まず御殿山東南の英国公使館の建設が始まった。
ここに事件が起きる。長州藩高杉晋作は横浜で外国公使館の襲撃を計画するが、土佐藩士に漏れたことで、藩主毛利定広の知るところとなり、説得に応じ中止、自らは謹慎処分の身となった。この謹慎中に彼は国家の御楯となるべく御楯組を結成、血盟書を作成した。
血盟書作成の約1ヶ月後の文久2年(1863)、東海道品川宿の妓楼旅籠屋(土蔵相模)に集結した高杉晋作久坂玄瑞井上聞多(馨)、伊藤春輔(博文)を始めとする長州藩士13名は夜間焼玉を持ち、御殿山に向かい、外堀と柵を超え公使館に侵入、板や建具類を積み重ね焼玉に火を付けほゞ完成していた幕府費用により建設された絢爛豪華な英国公使館を全焼させた。大凡の犯人の目星は付いていたものの、庶民の覚え悪く、犯人逮捕は幕府の本心でもなかったことから事件はうやむやのままとなった。

高杉と久坂は芝浦の芸妓で燃え盛る公使館を眺めて酒盛りをしていたという。

 

後年明治政府を指導する立場となる、伊藤博文山縣有朋の伝記や回顧録に当時の模様が語られ、「あれは我々がやった」という自慢話から明らかになったようだ。

 

後、久坂は禁門の変で倒れるが、高杉は潜伏していた福岡で1人決然と立ち、赤間関に戻った。各諸隊の反対を押し切り、馬関の藩支所に朝駆けする。この時共に付いてきたのは伊藤春輔を始めとする数十名であった。所謂功山寺挙兵である。この挙兵が幕府に恭順を示していた藩政を倒幕に転換し維新への大回転とならしめる。これを征伐するため幕府は15万人の大軍を長州四境へ投入するが、対する長州軍は僅か4千~4千五百人の兵数で対抗した。

しかし高杉晋作村田蔵六の指揮により、四境悉くで幕府に打ち勝った。長州一藩のみで大軍の幕府軍を破ったのである。まさに奇跡と云える。幕府の権威は失墜し、慶喜は一旦江戸に逃げ帰り、やがて京都で大政奉還を迎えることになる。

 

長州の風雲児晋作は四境戦争の終焉も間近に迫った慶應3年(1867)、春も終わりに近い頃肺結核により逝った。

 

諱(いみな)は春風   享年29であった。