世田谷上野毛(かみのげ)にある五島美術館は等々力渓谷から近い。今回は渓谷の途中から住宅街に抜け環八通りに出て、それに沿って歩くことにした。スマホの経路案内を使ったが思うように行かず、歩道橋の前でストップした。良く見ると歩道橋を渡れの指示があったので歩道橋を渡り更に環八通りを歩き続けたが通り過ぎて多摩美大迄来てしまった。
が目的の美術館は多摩美大からは近いので、此処から少し戻ればいいのかと凡の見当は付いた。
案の定多摩美大の通りを右に曲がって間も無く美術館に到着した。今回は等々力渓谷から歩いて来たが最寄駅の上野毛からは徒歩5,6分というところか。
多摩美大前の通り
五島美術館は東急の創業者五島慶太がこの地に開設したもので庭園を含めると6000坪の敷地面積を有する。多摩川が武蔵野台地を浸食して出来た国分寺崖線上に位置し、崖の名の通り庭園は急峻な傾斜が多い。狭隘な山道を歩くが如く庭園の、その所々に五島が鉄道事業によって獲た大日如来や六地蔵等の石仏が点在している。
東京帝国大学で学んだ五島は9年間官僚として務めた後、鉄道事業に乗り出した。競合会社を次々と買収する手法から強盗慶太の異名を持った。
東京南西部から神奈川東部、多摩田園都市に鉄道網を敷設し、沿線の停車駅に大学を誘致していった。例えば関東大震災で被災した台東区蔵前にあった東京工業大学を大岡山に、日吉台の土地を慶應義塾大学に無償で提供する他、日本医科大学、東京都立大学、東京学芸大学等。
斯くして東横、多摩沿線を学園都市として位置付け、学生という通学客を安定的な顧客として獲得し事業拡大に繋げた。
関東大震災の被害が比較的少なかった渋谷、新宿エリアには甚大な被害を蒙った湾岸地域から多くの住民が移転して来たこともこれ等の地域の人口を増大させた。
渋谷近郊から発着する東急と名の付く路線だけでも東横線、大井町線、田園都市線、池上線、世田谷線等が有り、東急はこれ等の沿線から都心に通学する上記学生のみならず、人口増大による通勤客、買物客を次々と取り込んでいった。
1934年(昭和9)には渋谷駅前に関西の阪急創業者小林一三に倣い、関東初の電鉄系ターミナルデパート東横百貨店を開業させ百貨店事業にも参入した。呉服商を起源に持つ既存の他百貨店との差別化を計り、食料品や日用品を中心とした商品を販売し、東横百貨店は大いに繁盛した。
また近隣に本社ビルを建造し、渋谷の地に次々と自社ビルを建造した。東急文化会館、東急百貨店本店、Bunkamura、セルリアンタワー、109(東急の語呂合わせで109)等が東急により開発されて行く。こうして東京の田舎であった渋谷は瞬く間に大都会に変貌して行った。
渋谷は五島が創業した東急グループが開発していったと云っても過言ではない。東横百貨店、東急文化会館は既に解体され、これ等の建造物はヒカリエ、マークシティ、ストリーム、スクランブル・スクエア(開発途上:東急、JR東日本、東京メトロ共同体)と新たに建造され、現在も進行中だ。東急百貨店本店も来年閉店され、新たな複合施設が構築される。
五島は美術、古写経、工芸品にも関心を示し、数多くの作品を蒐集した。必然的に自らの所蔵品を広く公開展示するための美術館設立は五島の宿願であり、その準備を精力的に進めてもきた。
斯くして念願の五島美術館は1960年(昭和35)に開館したが五島慶太は、開館前年に病没し、完成したこの美術館を自らの目で見ることは叶わなかった。
この寝殿造の意匠をとりいれた近代的な美術館は東急二代目五島昇によって開館された。
尚美術館の開館に伴って1949年(昭和24)に開庫していた大東急記念文庫会も上目黒から上野毛に移転した。
美術館は国宝5点と重要文化財を所有している。とりわけ源氏物語絵巻、紫式部絵巻が有名であり、前者は春、後者は秋にそれぞれ10日間程公開する。併設する大東急記念文庫は古書、専門書、が所蔵されており国宝3点、重要文化財点が収蔵されている。専門性が高く、研究者を対象とした教育活動が中心となっており一般には公開されていない。
この日美術館では西行展が行われていた。
西行に関心はあったが、午前中等々力渓谷を散歩して来たので時間が足りず今回は庭園の散策のみとした。入場料は300円である。
本館の他に2つが登録有形文化財となっている
五島美術館正門
正面入口附近の紅葉
中庭から
茶室富士見亭
藤棚
庭園内
瓢箪池附近
春山荘門
東急大井町線と駒沢通り入口春山荘附近の紅葉 但しこちらの入口からは入場出来ない
大岡山で都営三田線直通の電車に乗り換え
駒込駅で降り、山手線で帰った。
曇一つない快晴であり、風もなく、紅葉も見頃であり、野山のそぞろ歩きにはもってこいの一日であった。
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