三菱一号館は1894年(明治27 )イギリスの著名な建築家ジョサイア٠コンドルの設計により、三菱が丸の内に建設した最初の洋風事務所。
老朽化により1968年(昭和43)解体、42年の時を経て当時の赤煉瓦の建物を復元新築し2010年(平成22)三菱一号美術館としてオープンした。
開催記念展示は「マネとモダニズム」展であった。勿論私も鑑賞した。
今回の至宝展では三菱創業150周年を記念し、三菱所縁の静嘉堂文庫や東洋文庫が所蔵する国宝12点を含めた秘蔵のコレクションが展示されている。筆者はこの中の只一点
「曜変天目茶碗」を観るためにのみチケットを購入した。
〈Cafe1864 嘗て銀行営業室として利用されていた場所を復元新築後カフェとして使用している〉
〈今回のメニュー〉
〈カフェ内〉
〈男爵のハレの日ランチ〉
三菱創業時の明治期、男爵が特別な日に食べた贅沢ランチをイメージしたもの
(柑橘サラダとグリーンピースの冷製スープ)
(スープに浮ぶ斑紋)
(明治期に流行った牛フィレ肉のカツレツ
デミグラスソース添え)
(曜変天目とコラボしたデザート
手のひらの宇宙)
久し振りに脳を満足させたランチだった。
〈曜変天目(稲葉天目)〉
〈光の角度による色彩の変化〉
漆黒の肌に星のような大小の斑紋が鏤められ、瑠璃色の朧げな濃淡が斑紋の輪郭を描く。光の照射角度によって色彩は幾重にも自在に変幻する神秘の器、曜変天目。
僅か四寸の茶器の中に、幽玄の美と無量の広袤がある。
存在そのものが謎と謂われる奇跡の茶碗曜変天目の存在を筆者が知ったのは可成り前のことだった。これ迄も東京国立博物館等で公開展示されることはあったが見る機を逸していた。この度三菱美術館で鑑賞出来る機会を得たことは望外の喜びであり、今だ興奮冷めやらぬ。
曜変とは窯変(陶磁器を焼く際窯の中で予期せぬ色に変化する)、或いは耀変とも表記され、見込み(茶碗の内側)に見られる大小の斑紋が瑠璃色や虹色の光彩を放ち、恰も星の煌めきのように見えることを云う。
天目は中国浙江省天目山の禅院に由来し鉄分を多く含んだ釉薬(鉄釉)、特に黒、濃褐、茶色の釉調を持つ焼物のことであり、この地には日本からも僧侶が修行に訪れており、それらの僧侶が日本に持ち帰った黒釉茶碗を天目と呼ぶようになったと伝えられている。また鎌倉、室町時代の交易等で請来したものと思われる。
この不思議な茶器は南宋時代に製作されたものの、その後の焼成は断絶した。中国ではこの茶器が人力の及ばぬ焼成であり斑紋や虹彩が不吉なるものとして恐れられ、直ちに破棄されたとの言い伝えもあるが、浙江省杭州の南宋皇城跡地附近で2009年不完全な形ではあるが曜変天目の陶片が出土されたことから宮廷にて使われていたことも推測される。
但し、中国では未だ完全な形での曜変天目は発見されておらず、文献上の記述もない。
何故日本のみにほゞ完全な形で現存するのか、見込みの斑紋が如何なる条件で現れるのか、製作者の意図を乗り越えた極稀な偶然の一致が綾なした産物であるのかを含め全てが謎めいている。
曜変天目の名自体は日本で附けられ、室町時代の「能阿相伝集」が初出とされている。
足利8代将軍義政の寶物台帳と云われる君臺觀左右帳記(くんだいかんしょうちょうき)には以下のようにある。第一の重寶が曜変(天目)であり、第二の重寶が油滴(水に油が散ったような景色)であるとされ「曜変、建盞の内無上也。世上になき物也。
地いかにも黒く、濃き瑠璃、薄き瑠璃の星のひたとあり。又黄色、白色、濃く薄き瑠璃なとの色々ましりて、錦のようなる釉薬(くすり)もあり。萬疋の物也」
(左右とは義政左右の侍者、同朋衆による記録であり、主に唐物奉行相阿弥によるものと思われる。 現存しているのは写本のみであり、この部分は仮名書が多く、読みにくいので一部漢字表記にした)
世界の陶芸史上最も美しい茶器曜変天目は南宋時代(1127~1279)、福建省建陽市の建窯で焼成されたもので建盞(けんさん)と云われる。盞とは焼物の意。見込みの斑紋と虹彩、漏斗状に開いた形状、口縁(唇に触れる部分)のくびれ(鼈口すっぽんぐち)、小さな高台を持つ天目形(てんもくなり)と呼ばれる端正な形状等に特徴があり、あらゆる天目茶碗の中で建盞が無上のものと云われる。
ほゞ完全な形で残っている日本の3点は何れも国宝指定となっている。以下にその3点を挙げる。
何れも南宋時代のもので、建盞、製作者は不詳。
1.曜変天目茶碗(稲葉天目)
所蔵:東京世田谷静嘉堂文庫
寸法:高さ6.8、口径12.2、高台径3.8cm
徳川3代将軍家光→春日局→淀藩稲葉家
→小野光景→岩崎小彌太→静嘉堂文庫
三菱財閥第4代総帥岩崎小彌太が1934年(昭和9)購入したもの。岩崎小彌太は創業者岩崎彌太郎の弟である第2代総帥岩崎彌之助の長男で東京帝国大学法科中退、ケンブリッジ大学卒業。男爵。
現在は三菱所縁の静嘉堂文庫が所蔵している。
星の斑紋が多く、美しいことから最も価値が高いと云われる。
名物目利聞書によれば「東山殿御物は信長公へ伝え焼亡せしより、曜変、稲葉丹州公にあり、此類品世に屈指之無なり」とあるように足利8代将軍義政の寳物は、室町幕府を葬り去った信長にとっては蘭奢待を切取ることよりはるかに容易に手に入れられると考えられる。義政は11年続き京都を焼け野原にした応仁の乱の最中も、乱終了後もまた政治其方退けで己の趣味に没頭した特異な将軍である。その一方東山文化を築き、日本の侘寂の境地の礎を造り、茶の道もまた義政により発展した。
義政が所謂唐物に異様な執着を持っていたことから、曜変天目茶碗を蒐集していたことは自然なことであるし、之が信長の手に渡ったことも間違いないと考えられるが、その茶器が本能寺の変で焼亡したかどうかは確証の術が無い。信長が所持していた天目茶碗が、天下一のものでありそれが失われた今となれば稲葉家のものが、最も優れているということを上記名物目利聞書は述べている。
2.曜変天目茶碗
寸法:高さ6.6、口径12.1、高台径3.8cm
龍光院(りょうこういん)は1606年(慶長11)福岡藩主黒田長政が父黒田官兵衛の菩提を弔うために建立。茶器は実質的な開祖江月宗玩により寄進され、代々の住持に受け継がれ今に至ると云われている。
江月は信長、秀吉の茶頭も務めた堺の豪商天王寺屋津田宗及の次男で一説によれば天王寺屋に伝わる数々の名宝を受け継いだもの云われ、曜変天目もその中の一つとされている。
3つの中で最も地味であると云われるが、
それ故にか幽玄な趣を持つと評価される。
龍光院は観光目的の参観を行っておらず、所蔵品の展示も為されていない。
従って3点の内で最も観ることが出来ない曜変天目であるが、1990年(平成2)、約400年の時を経て東京博物館にて初めて一般公開された。その後数回公開されたがやはり観る機会は少ない。
3.曜変天目茶碗
所蔵:大阪藤田美術館
寸法:高さ6.8、口径13.6、高台径3.6cm
藤田美術館は大阪の実業家で藤田財閥創始者藤田傳三郎(山口県出身)及び長男平太郎、次男徳次郎が蒐集した東洋古美術を所蔵している。1954年(昭和29)開館。
現在リニューアル中で2022年4月オープン予定。
藤田美術館の曜変天目は外側にも微かな曜変が見られ、口縁に銀の覆輪(ふくりん、口縁の保護や装飾に用いられる)が施されている。この二つは他2点の国宝曜変天目には見られない特徴である。
1950年(昭和25)文化財保護法が制定され、翌1951(昭和26)6月9日の国宝及び重要文化財指定基準により稲葉天目と龍光院所蔵の曜変天目はその日に国宝指定を受けた。
藤田美術館の曜変天目は1953年(昭和28年3月)重文指定となり同年11月に国宝となる。
指定基準では重要文化財のうち「製作が極めて優れ、かつ文化的意義の特に深いもの」「学術的価値が極めて高く、かつ歴史上極めて意義の深いもの」を国宝に指定することが出来るとあり、重要文化財の指定を受けた後、その価値が認められたときには国宝となる。
尚、旧文化財法での登録は龍光院の茶器が最も古く1908年(明治41)、次いで稲葉天目が1941年(昭和16)に指定を受けている。
今回筆者が観た国宝は1の稲葉天目であり、
800年を経たものとは思えない艷やかな耀きを発しており驚嘆させられた。
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