仁義の墓場(石川力夫)どうしよもない男 はてなブロ

俺が死ぬ時はカラスだけが泣く!

石川力夫は実在した極道者である。極道というだけで忌み嫌う世の中なので、この映画を観た人は少ないだろう。又上映されたのは1975年度(昭和50年)で46年前の映画であることから観ようとする余程の意思でも無い限りこの映画と出合うことはないだろう。

この映画は真当な精神構造を持っている一般の紳士淑女が見るべきものでは無い。大多数の人にとっては気味が悪いだけで観ても何ら益するものは無いように思える。

只大いなる人生の虚脱感を味わいたい人々は観てもよいかも知れない。

映画名は「仁義の墓場」という。

渡哲也の東映移籍第一回作品、メガホンを撮ったのは深作欣二という監督だった。

 

渡哲也の映画やTVは何本か見ているが良いと思ったものはない。全部見た訳ではないので観たものの中ではとしか言えないが。

しかしこの映画は恐らく日本映画史上に残る傑作と云える。勿論好みの問題はあるだろうが…

大河ドラマ勝海舟を病気で降板し、8カ月の闘病生活を経た後の病み上がりの渡哲也が主人公である石川力夫なるヤクザ者を演じている。まるで石川力夫が乗り移ったような渡の鬼気迫る凶暴な演技と、主人公が実在した人物とは云え深作欣二以外には決して撮りえない暴力的な演出には戦慄を覚える。これは残酷で、破滅的な人格、不気味で暗く、笑いや喜びという感情をその生命体の中に全く持ち合わせていない残虐非道者の半生を衝撃的なタッチで映像化した仁義も筋目も無い、真っ暗闇の、狂気溢れる、アナーキーな作品である。

深作欣二は「仁義なき戦い」でブレイクした監督であるが、他にも「蒲田行進曲」「魔界転生」「火宅の人」或は既に50年前に、今日のウィルス禍を予見したと云われる小松左京原作の「復活の日」の映像化も行っており作品の幅は広い。

 

映画は主人公石川力夫を知る人達へのインタビューから始まる。東京へ出る迄の少年期の石川がどんな性格、特徴を持っていたか聞き出してゆく。石川の少年時代を語る人達の水戸訛りの話し言葉とモノクロの映像は恰もドキュメンタリーを想わせ、以後の展開への関心を煽る。

 

舞台は石川が東京に出て、河田組というテキヤの子分になった昭和21年の新宿。

敗戦後の混乱期で多くの闇市が並んだ駅前附近では新旧或は他地域のやくざが入り乱れ凌ぎを削っていた。

 

石川の行状

1.三国人(朝鮮、台湾、中国人)襲撃

池袋から新宿に侵出し商売をする親和会のチンピラに石川は誰の許可貰って売やってるんだと言い掛かりを付け、いきなり拳銃を発射し相手が稼いだ金を践んだくる。

しかし組のために良かれと思ってやったことを、余計なことをするなと兄貴や親分に窘められる。

そんな時、後に今井組を起ち上げる今井幸三郎から日本人に対して無理、無法を働く三国人のアジトを襲撃する計画を持ち掛けられる。

チャカ(拳銃)を調達した今井、石川等は東京中野の三国人のアジトである中華料理店を急襲。金品を強奪し逃走する。

この逃走の過程で、何事かと偶然戸を開けた地恵子のもとに、石川はこれ幸いと転がり込む。

事件を知ったMP(アメリカ軍憲兵)と日本の警察が捕縛に乗り出す。石川は後で取りに来ると言って三国人から奪った金を地恵子に預け今井等と合流する。

2.地恵子を自分の女にする

襲撃された三国人、襲撃した今井、石川共々逮捕投獄されるが今井、石川等は警察の温情?で牢獄から解放される。その帰り路石川は地恵子の部屋に上がり込み「何にもしねえーよ、何にもしねぇーよ」と繰り返しながら女を手籠にする。以来地恵子は石川の女となり疫病神に取り憑かれる。犯した後預けていた金品は持って帰る。

3.親和会幹部を刺す

池袋親和会は新宿進出を画策する。新宿の倶楽部で遊ぶ親和会の幹部とその部下達は池袋から連れてきた幹部の女を倶楽部で働かせ、その倶楽部で派手に金を使う。石川はこの女に狙いを附け、女が便所へ行くことを確認すると小便している最中を見計らってドアを開ける。「何するのよ」と抵抗する女に襲いかかる。親和会の幹部が気が付き「表へ出ろ」ということになる。シマを荒らされるのは組のためにならないと思った石川は表に出る前に匕首でいきなり親和幹部に斬りかかり重傷を負わせる。

大事になることを怖れた河田組は大金を包んで親和会に見舞方々詫びを入れに行くが、新宿進出が目的である池袋親和会は此れに応じず一触即発の事態となった。困り果てた河田組組長は兄貴分である野津に相談に行く。野津の助言により、GHQを介入させ、河田組対親和会の一触即発の事態は回避された。石川は組内の兄貴分たちに散々どやされるが「俺のお陰で親和会が手を引いたんじゃねえか」と嘯く。

4.河田組長の兄貴分野津の車を炎上させる

賭場で掛札(金)が無くなった石川は代議士の先生に胴元が掛札を貸すのを見て、俺にも貸してくれと頼みこむが断られる。今にも掴みかかろうとするところを河田組の兄貴分である野津が現れ「組の看板を大事に出来ねえ奴は本当の男にはなれねえぞ」と苦言を呈しつつも侠気溢れる野津は石川にポンと金を差し出す。石川はこの金を平然と受け取るが、意見されたのが気に入らなかったのか、受け取った札束にライターで火を付け、野津の高級車の給油口に放り込み車を炎上させる。

5.自分の組の組長に斬りかかる 

今迄我慢してきた河田組組長も兄貴分の野津の車の件では流石に堪忍袋の緒が切れ、木刀で散々石川を叩きのめす。「親分もうこの辺で、後は俺達が言って訊かせますから」と子分達の意見を受け組長はやっと引き下がる。全身を強打され、血だらけになった石川は兄弟分の今井の処に行って酒びたりになる。

その夜石川は組長の仕打ちに我慢出来ず深夜呑んだくれの状態で河田組に舞い戻り、親父に会わせろ難癖を附ける。

再び組長に打ちのめされるようとするところ隙をついた石川の匕首が親分の腹部を刺す。親に手を挙げる飛んでもない奴に組長は日本刀を抜き、対抗しようとするが、それより早く更なる石川の匕首が組長を斬り刺し大怪我を負わせる。

石川は逃亡。地恵子の部屋に転がり込む。

「寒いよー、寒いよー、助けてくれ」と言って地恵子にしがみつく。

数日後中野警察署に自首し1年半の実刑となる。親に仇なしたこの事件はやくざ社会に衝撃をもたらし、石川を殺れば男が上がると石川は皆に狙われるようになる。

6.死への恐怖と大阪落ち、地恵子を売る

「元旦や 我が前に立つ 黒き影」という句にあるように石川は死への恐怖を常に抱いていたのか刑務所内でも一つ部屋に居る囚人達にいきなり殴りかかる等狂暴を極めた。

刑期を終えた石川を待って居たのは兄弟分の今井だった。石川には東京処払い10年の破門状が出されていた。今井は石川に「暫く大阪に行っていろ、10年とは云わずに俺が何とか東京に戻るよう計らうから」と石川を思いやる。

地恵子の処にも行き「大阪に行くことになった、ついては逃亡資金が必要だ。四谷荒木町に俺の知ってる芸妓屋がある。そこへ行って呉れるか」と言い石川は自分の女である地恵子を芸妓屋に売り飛ばす。地恵子はこの時既に結核に侵されていたがこれを隠し、黙って石川の言うままになる。この当時結核は未だ不治の病だった。

6.大阪でヘロインを覚える

石川は大阪に行くが、釜ヶ崎のある病院録に肺結核との診断が残されていたことから石川も結核にかかっていたようだ。

ドヤ街で知り合った娼婦に「あんた知らんのかいセックスよりなんぼかええで」と言われヘロインを教わる。

モルヒネを超越する万能薬ヘロイン。モルヒネをアセチル化したこの薬物は、血液脳関門を容易に通過し脳神経を占拠する。陶酔の極致に達し、此れ迄味わった快感を全て掛け合わせたものをも凌ぐ多幸感が得られるという。それ故に精神的、身体的依存性は強い。

襤褸アパートの一室で壁に凭れかかり呆けたように一点を見詰める男とぐったりと項垂れるペー中毒の女。隣の部屋では位牌に頻りに手を合わせる男。

ヘロイン(ペー)が欲しくなった石川は暴力団が営業する店を襲いペーを奪おうとするが抵抗される。そこにペー中毒の極道者小崎が駆け付け矢鱈めったら拳銃をぶっぱなし「全部出せゆうとるやないか」と言ってありったけのペーを奪う。

 

7.兄弟分の今井を殺害。地恵子の自殺。

大阪にどうしても馴染まなかった石川は10年の所払いのところ僅か1年ちょっとで、大阪で知り合った小崎と共に新宿に舞い戻って来る。一家を構えるようになった兄弟分今井組の賭場に現れ、賭場荒らしをする。今井は石川を呼び「河田組に見つかったら面倒なことになるから、大阪が嫌だったら他紹介するから、河田組に知られる前にここを離れろ」と言う。これに対し石川は終始無言であった。今井は仕方無く当面の資金をくれてやる。石川は黙ってこれを懷に入れ立ち去るが今井の賭場にいた石川の噂は嫌でも河田組の知るところとなる。破門状を書き、所払い10年を言渡しにも拘わらず1年ちょっとで戻られた日にゃ河田の面目は丸潰れとなる。河田は今井を呼びつける。今井は河田と話合い「兄弟分のことは俺が責任持って何とかします」と河田に約束する。ところが石川は「兄弟分のことはどんなことかあっても守ると言ったんじゃねーのか、お前俺を売ったな」と逆怨みする。今井も「それじゃー兄弟分の処で賭場荒らししてるのはどういう算段なんだ」と意見すると石川は不気味な笑いを浮かべて今井にいきなり匕首で斬り付ける。小崎はチャカを撃ちまくり、共に逃亡する。今井組は逃げた石川を懸命に捜すが杳として見付からなかった。しかし1週間が過ぎた雨の降る日、黒い合羽に全身を包み、手に拳銃を持った石川が1人で今井組にやってくる。今井組の子分を嚇し、今井の部屋を確かめると2階で身体中に包帯を巻き付けていた今井にいきなり拳銃をぶっぱなす。今井も引き出しの拳銃を取ろうとしたが間に合わず背中に止めの数発を浴び息絶える。

翌日潜伏先を察知した野方警察署は50名の警官隊でそのアパートを取り囲んだ。これを聞き付けた今井組、河田組の組員も集まってきて現場は騒然とした状況となった。「周囲は全て包囲されている、拳銃を捨てて自首せよ」と云う警察署長の勧告に対し石川は警官隊に向けて発砲、徹底抗戦するが弾も無くなり、石礫を投げつけられ、堪らず外に出た処で警察に捕まる。

裁判の結果、懲役10年の刑が確定する。

石川はこれを不服として最高裁に上告する。

地恵子は自らの病気も顧みず身を粉にして働き前借を重ね保釈金を用意する。

 

仮釈放になった石川は地恵子のもとを訪れる。相変わらずペーを打つ石川だったが地恵子の病状は悪化しており石川が、ペーで陶酔に浸っている間に激しく喀血した。石川は手拭で地恵子の血だらけの腕、顔、胸を拭う。地恵子は「有難う」の一言を石川に残し、泣き崩れた後剃刀で手頸を斬り自ら命を絶つ。

窓の外に揺らぐ赤い風船。

 

 8.再び河田組に顔を出す

何くれと親身になってくれた兄弟分の今井を撃ち殺し、地恵子を自殺に追いやった石川は墓を造る。正面に石川力夫と今井幸三郎、左側に今井、石川、地恵子の3人の戒名、右側に「仁義」の文字を刻んだ。この墓は西新宿の寺に現存するが、石川の刻んだ「仁義」とは如何なる意味であるのかは謎である。

地恵子の遺骨を抱いた石川は河田組を訪ねる。例の如く暫くは無言である。組員に「用があるならさっさと言え」と責められた石川は骨壺の蓋を開け、地恵子の骨を囓りだす。驚き呆れる組仲間をよそにやっと口にした言葉が「長い間迷惑を掛けたけど俺もこの辺で一家を起こしたい、ついては2丁目の空いている土地を俺に呉れませんか。あとビルを建てる資金として2000万程都合してくれませんか」だった。

石川は地恵子の骨をしゃぶりながら組長を恐喝する。悪鬼のような男である。呆れ果てた組長が去った後、まるで冥土からの使者の言葉である如く、静かに、ゆっくりと、「また来るぜ」とドスの効いた捨て台詞を残して去って行く。

 

 9.墓場での襲撃、飛び降り自殺

墓を立てる場所でも探していたのか、女の遺骨を置いて墓地にしゃがみ込み、ぺーを打ち陶酔郷を彷徨う石川。もう殺るしか打つ手が無いと付け狙ってきた河田組の組仲間数人により滅多刺しにされる石川。

宙(そら)を舞う赤い風船。

 

このろくでなしの疫病神はそれでも死なず病院に搬送され奇跡的に回復する。

上告は却下され再び府中刑務所に収監される。6年の歳月を経た後、何を思ったのか他の囚人、監視員が止める中、身体を包んでいた毛布をマントのように拡げ病院の屋上から飛び降り自らの命を断った。

 

辞世の句が刑務所内の壁に書かれていた。

「大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ」

 

石川は30年の生涯のうち、9年間は刑務所で暮らした。娑婆で生活したのは約20年、長かったのか、短かったのか。

30歳で自らの命を絶つに至った境地も又判らない。

映画を観終わった後、これ迄味わったことの無い深い虚脱感に見舞われ、吐気を催した。

何という人生なのか!

 

全編を通して流れる、切なく、やるせない、哀調を帯びた旋律が頭にこびりついて離れない。

 

 

 

 

日本橋 三井美術館

国宝に指定されている茶碗は現在8碗ある。内訳は曜変天目が3、油滴天目が1、玳玻天目(たいひてんもく)が1の所謂唐物が5碗。

李朝物の井戸茶碗銘喜左衛門が1碗、国焼である銘卯花墻と樂焼白方身変茶碗銘不二山の2碗の計8碗である。

三井美術館は桃山時代の志野茶碗 銘卯花墻(めい うのはながき)を所蔵している。丁度展示中でもあったということと、又本展終了後はリニューアル工事に入り来年の4月まで閉館ということだったので観ておくことにした。

三菱に続き三井美術館を訪ね両財閥の美術館を巡ったが、財閥の歴史としては三井の方が古く、伊勢松坂の商人であった三井高利日本橋に三井越後屋呉服屋を開業したのは1673年(延宝元年)のことである。10年後の1683年日本橋駿河町に店舗を移し呉服店、次いで両替商も開業した。駿河町は現在の日本橋室町一丁目で三越日本橋店、三井住友信託銀行が有る場所であり、三井は同じ場所で340年近く営業を続けている。美術館内には中央通りから駿河通り(現在の江戸桜通り)を経て常磐橋方面を描いた広重の絵が飾られている。これには両側に三井呉服店の暖簾が画かれており(右は現在の三井住友信託銀行)奥中央には駿河町の名の由来となった駿河國の富士山が大きく描かれている。

現銀掛値無し(げんきんかけねなし)や店前現銀売り(たなさきげんきんうり)等当時としては様々な斬新な手法を試み三井越後屋呉服店は大いに繁盛した。越後屋の名は高利の祖父が武士であり、越後守を名乗っていたことによる。

三井越後屋は1904年(明治37)、三井と分離して株式会社三越呉服店となり、日本初の百貨店として出発。1928年(昭和3)に現在の社名株式会社三越となる。

 

日本橋三井タワーは千疋屋と三井が建築主であり、高層階にはマンダリンオリエンタルホテルが入る。今ではこの高層ホテルからしか富士山は見えないかもしれない。ラグジュアリーなマンダリンオリエンタルホテルにはフレンチのシグネチャー、中華のセンス、鮨宮川等の高級店が入り贅沢な時間と空間を味える。

又2階千疋屋にはフルーツパーラーの奥にWINE&DININGのデーメテールがあり、数ある千疋屋店舗のなかで唯一本格的なフレンチコース料理を楽しめる。高い天井、スワロフスキーの仄暗いシャンデリア、店内から見えるビル群の夜景、それらが相俟った瀟洒なアトリウムで優雅な一時を過ごすことが出来る。

デーメーテール
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三井美術館は日本橋三井タワーに隣接した三井本館7階にある。f:id:gaganbox:20210808154439j:imagef:id:gaganbox:20210808154520j:image

ミュージアムカフェ〉
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〈鴨蕎麦といなり寿司2個付き〉
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ここで腹拵えをしてから美術館を見学することにした。

三菱のCafe1894とは大分雰囲気は違う。

果たしてリニューアル後はどうなるのか?

 

 

私は茶碗や茶に格別関心が有るわけではないが数年前に一保堂の丸ノ内仲通り店で煎茶を飲んだことがあった。一保堂は京都に本店がある創業1717年という日本茶の老舗である。

店内には嘉木(かぼく)という喫茶室があり、和菓子とセットで淹れたての抹茶、煎茶、ほうじ茶等を味わえる。抹茶はたまに飲む機会に接することがあるので、その時は煎茶を選んだ。本格的な作法に従って淹れて貰った煎茶を飲むのは初めてであり、実に芳ばしく、温度差によるものと思われるが1つの茶葉でこれ程味に違いがあるのかと感心した記憶がある。

茶に親しみながら喧しい世に一切背を向け

枯淡の境地に入るのも一興かなとは思う。

 

今回三井美術館で展示してあった国宝は以下の2件。

桃山時代の〈国宝 志野茶碗 銘卯花墻 〉
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写真は無いがもう1つは江戸時代の円山応挙筆による「雪松図屏風」。

 

三菱で12、三井で2の、計14件の国宝を短期間で観たことになる。

だからどうと云うことでもなく、観てもその価値が分かる訳でもない。

 しかし、今回も含めこれ迄観てきた国宝の中で、何故か魅了されたものは何件かある。

挙げてみれば、鳥獣戯画、地獄草紙、狩野永徳の洛中洛外図(上杉本)、俵屋宗達風神雷神図それに今回の曜変天目茶碗等…

 

曜変天目〜三菱一号館美術館 はてなブログ

三菱一号館は1894年(明治27 )イギリスの著名な建築家ジョサイア٠コンドルの設計により、三菱が丸の内に建設した最初の洋風事務所。

老朽化により1968年(昭和43)解体、42年の時を経て当時の赤煉瓦の建物を復元新築し2010年(平成22)三菱一号美術館としてオープンした。

開催記念展示は「マネとモダニズム」展であった。勿論私も鑑賞した。

 

今回の至宝展では三菱創業150周年を記念し、三菱所縁の静嘉堂文庫や東洋文庫が所蔵する国宝12点を含めた秘蔵のコレクションが展示されている。筆者はこの中の只一点

曜変天目茶碗」を観るためにのみチケットを購入した。


〈Cafe1864 嘗て銀行営業室として利用されていた場所を復元新築後カフェとして使用している〉
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〈今回のメニュー〉
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〈カフェ内〉
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〈男爵のハレの日ランチ〉

三菱創業時の明治期、男爵が特別な日に食べた贅沢ランチをイメージしたもの

(柑橘サラダとグリーンピースの冷製スープ)f:id:gaganbox:20210728210731j:image
(スープに浮ぶ斑紋)
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(明治期に流行った牛フィレ肉のカツレツ

デミグラスソース添え)
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(曜変天目とコラボしたデザート 

手のひらの宇宙)
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久し振りに脳を満足させたランチだった。

 

曜変天目(稲葉天目)〉
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〈光の角度による色彩の変化〉f:id:gaganbox:20210811094311j:image

漆黒の肌に星のような大小の斑紋が鏤められ、瑠璃色の朧げな濃淡が斑紋の輪郭を描く。光の照射角度によって色彩は幾重にも自在に変幻する神秘の器、曜変天目

僅か四寸の茶器の中に、幽玄の美と無量の広袤がある。

 

存在そのものが謎と謂われる奇跡の茶碗曜変天目の存在を筆者が知ったのは可成り前のことだった。これ迄も東京国立博物館等で公開展示されることはあったが見る機を逸していた。この度三菱美術館で鑑賞出来る機会を得たことは望外の喜びであり、今だ興奮冷めやらぬ。

 

曜変とは窯変(陶磁器を焼く際窯の中で予期せぬ色に変化する)、或いは耀変とも表記され、見込み(茶碗の内側)に見られる大小の斑紋が瑠璃色や虹色の光彩を放ち、恰も星の煌めきのように見えることを云う。

天目は中国浙江省天目山の禅院に由来し鉄分を多く含んだ釉薬(鉄釉)、特に黒、濃褐、茶色の釉調を持つ焼物のことであり、この地には日本からも僧侶が修行に訪れており、それらの僧侶が日本に持ち帰った黒釉茶碗を天目と呼ぶようになったと伝えられている。また鎌倉、室町時代の交易等で請来したものと思われる。

 

この不思議な茶器は南宋時代に製作されたものの、その後の焼成は断絶した。中国ではこの茶器が人力の及ばぬ焼成であり斑紋や虹彩が不吉なるものとして恐れられ、直ちに破棄されたとの言い伝えもあるが、浙江省杭州南宋皇城跡地附近で2009年不完全な形ではあるが曜変天目の陶片が出土されたことから宮廷にて使われていたことも推測される。

但し、中国では未だ完全な形での曜変天目は発見されておらず、文献上の記述もない。

何故日本のみにほゞ完全な形で現存するのか、見込みの斑紋が如何なる条件で現れるのか、製作者の意図を乗り越えた極稀な偶然の一致が綾なした産物であるのかを含め全てが謎めいている。

 

曜変天目の名自体は日本で附けられ、室町時代の「能阿相伝集」が初出とされている。

足利8代将軍義政の寶物台帳と云われる君臺觀左右帳記(くんだいかんしょうちょうき)には以下のようにある。第一の重寶が曜変(天目)であり、第二の重寶が油滴(水に油が散ったような景色)であるとされ「曜変、建盞の内無上也。世上になき物也。

地いかにも黒く、濃き瑠璃、薄き瑠璃の星のひたとあり。又黄色、白色、濃く薄き瑠璃なとの色々ましりて、錦のようなる釉薬(くすり)もあり。萬疋の物也」

 (左右とは義政左右の侍者、同朋衆による記録であり、主に唐物奉行相阿弥によるものと思われる。 現存しているのは写本のみであり、この部分は仮名書が多く、読みにくいので一部漢字表記にした)

 

世界の陶芸史上最も美しい茶器曜変天目南宋時代(1127~1279)、福建省建陽市の建窯で焼成されたもので建盞(けんさん)と云われる。盞とは焼物の意。見込みの斑紋と虹彩、漏斗状に開いた形状、口縁(唇に触れる部分)のくびれ(鼈口すっぽんぐち)、小さな高台を持つ天目形(てんもくなり)と呼ばれる端正な形状等に特徴があり、あらゆる天目茶碗の中で建盞が無上のものと云われる。

ほゞ完全な形で残っている日本の3点は何れも国宝指定となっている。以下にその3点を挙げる。

何れも南宋時代のもので、建盞、製作者は不詳。

1.曜変天目茶碗(稲葉天目)

  所蔵:東京世田谷静嘉堂文庫 

  寸法:高さ6.8、口径12.2、高台径3.8cm

     徳川3代将軍家光→春日局→淀藩稲葉家

  →小野光景→岩崎小彌太→静嘉堂文庫

三菱財閥第4代総帥岩崎小彌太が1934年(昭和9)購入したもの。岩崎小彌太は創業者岩崎彌太郎の弟である第2代総帥岩崎彌之助の長男で東京帝国大学法科中退、ケンブリッジ大学卒業。男爵。

現在は三菱所縁の静嘉堂文庫が所蔵している。

星の斑紋が多く、美しいことから最も価値が高いと云われる。

名物目利聞書によれば「東山殿御物は信長公へ伝え焼亡せしより、曜変、稲葉丹州公にあり、此類品世に屈指之無なり」とあるように足利8代将軍義政の寳物は、室町幕府を葬り去った信長にとっては蘭奢待を切取ることよりはるかに容易に手に入れられると考えられる。義政は11年続き京都を焼け野原にした応仁の乱の最中も、乱終了後もまた政治其方退けで己の趣味に没頭した特異な将軍である。その一方東山文化を築き、日本の侘寂の境地の礎を造り、茶の道もまた義政により発展した。

義政が所謂唐物に異様な執着を持っていたことから、曜変天目茶碗を蒐集していたことは自然なことであるし、之が信長の手に渡ったことも間違いないと考えられるが、その茶器が本能寺の変で焼亡したかどうかは確証の術が無い。信長が所持していた天目茶碗が、天下一のものでありそれが失われた今となれば稲葉家のものが、最も優れているということを上記名物目利聞書は述べている。

 

2.曜変天目茶碗

  所蔵:京都市大徳寺塔頭龍光院 

  寸法:高さ6.6、口径12.1、高台径3.8cm

龍光院(りょうこういん)は1606年(慶長11)福岡藩黒田長政が父黒田官兵衛の菩提を弔うために建立。茶器は実質的な開祖江月宗玩により寄進され、代々の住持に受け継がれ今に至ると云われている。

江月は信長、秀吉の茶頭も務めた堺の豪商天王寺屋津田宗及の次男で一説によれば天王寺屋に伝わる数々の名宝を受け継いだもの云われ、曜変天目もその中の一つとされている。

3つの中で最も地味であると云われるが、

それ故にか幽玄な趣を持つと評価される。

龍光院は観光目的の参観を行っておらず、所蔵品の展示も為されていない。

従って3点の内で最も観ることが出来ない曜変天目であるが、1990年(平成2)、約400年の時を経て東京博物館にて初めて一般公開された。その後数回公開されたがやはり観る機会は少ない。 

 

    

3.曜変天目茶碗

  所蔵:大阪藤田美術館    

  寸法:高さ6.8、口径13.6、高台径3.6cm

  徳川将軍家水戸徳川家藤田財閥藤田平太郎)→藤田美術館

藤田美術館は大阪の実業家で藤田財閥創始者藤田傳三郎(山口県出身)及び長男平太郎、次男徳次郎が蒐集した東洋古美術を所蔵している。1954年(昭和29)開館。

現在リニューアル中で2022年4月オープン予定。

 藤田美術館曜変天目は外側にも微かな曜変が見られ、口縁に銀の覆輪(ふくりん、口縁の保護や装飾に用いられる)が施されている。この二つは他2点の国宝曜変天目には見られない特徴である。

 

 

1950年(昭和25)文化財保護法が制定され、翌1951(昭和26)6月9日の国宝及び重要文化財指定基準により稲葉天目と龍光院所蔵の曜変天目はその日に国宝指定を受けた。

藤田美術館曜変天目は1953年(昭和28年3月)重文指定となり同年11月に国宝となる。

指定基準では重要文化財のうち「製作が極めて優れ、かつ文化的意義の特に深いもの」「学術的価値が極めて高く、かつ歴史上極めて意義の深いもの」を国宝に指定することが出来るとあり、重要文化財の指定を受けた後、その価値が認められたときには国宝となる。

尚、旧文化財法での登録は龍光院の茶器が最も古く1908年(明治41)、次いで稲葉天目が1941年(昭和16)に指定を受けている。

 

今回筆者が観た国宝は1の稲葉天目であり、

800年を経たものとは思えない艷やかな耀きを発しており驚嘆させられた。

 

 

浅草鬼灯(ほおずき)市

 

昭和2年(1927)、日本初の地下鉄である銀座線の上野~浅草間営業が開始された。

その後地下鉄の延長、発展に伴い様々な地下街が形成されて行った。

最も古い地下街は昭和6年(1931)上野地下鉄ストア、次は昭和27年(1952)の銀座三原橋地下街(映画館や飲食店等が入っていたが老朽化や耐震性の問題で2014年に閉鎖された)、次いで昭和30年(1955)に完成した浅草地下街となる。前記2つは既に無く、現存する地下街ではここ浅草地下街が最も古く昭和感満載の風情を示す。

<地下街への出入口>
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〈地下街内〉

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〈入口を出ると中通り

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仲見世通りを交差して、右折すれば観音様が見えてくる。毎年その観音様の境内でほおずき市が行われる。ほおずきを売る屋台が100店程並び、50万人以上の人出がある。しかしウィルス禍により昨年に引き続き今年も中止となった。

 

写真は2019年7月10日の功徳日に撮影

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浅草寺では月1回の功徳日を設けているが、特に7/10は4万6千日の功徳日と称し、1回の参拝で寿命の限界である約126年の功徳が得られる日とされている。これに肖ろうとして境内は前日から参拝客で溢れ返った。浅草寺ではその混乱を避ける目的で前日の9日を含め7月9日・10日両日を4万6千日の功徳日とした。

 

芝の愛宕神社で4万6千日の縁日に鬼灯の実を鵜呑みすれば大人は癪を切り、子供は虫気を去るとして売出したところ、これを求める人が多数あったことから浅草でも、これに習い縁日に鬼灯を売ることにした。

 

ほおずきはナス科(Solanaceae)の植物で

学名はphyslis alkengi var.franchetii

英名をchinese lantern plantという。

6~7月にかけて、淡黄色の小さな花を咲かせる。花が咲いた後に六角状の萼(がく)の部分が発達して、果実を包み袋状になり、それが熟して赤色を呈する。

 

花言葉は偽り、誤魔化し 

(実の大きさに比して中は空洞で種も小さいことから)

 

漢字は鬼灯、鬼燈、酸漿、輝血、赤輝血等が宛てられる。

鬼灯、鬼燈は死者を彼岸から此岸に導く提灯の役割、輝血(カガチ)、赤輝血(アカガチ)は八岐大蛇の赤い眼に似ていることから来ているようだ。

 

全草を酸漿(酸っぱい粘調性の液)、根を酸漿根と称し鎮咳、解熱、利尿等の薬用に供した。他のナス科の植物同様毒性のあるアルカロイドを含有する。アルカロイドとは窒素を含む塩基(アルカリ)性の成分の総称でalkaliとoid(のようなもの)を組合せた語であり、その成分の多くは植物中に含まれる。

 

酸漿根にはヒストニンというアルカロイドが含まれており、子宮収縮作用があることから江戸時代には堕胎薬として使用されたこともあった。

 

<レストランとうよう>

昔ながらの洋食屋さん。

定食、飲物、デザート等種類は多い。

若き日(多分20代)の小林幸子、石田あゆみ、渡哲也の写真が店内に貼ってあった。

理由を店の人に尋ねたところ、昭和50年代は2階だか3階だかが音楽ホールになっており、その当時このホールで唄った時に撮った写真だと話してくれた。
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〈夕暮れの風景〉
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浅草寺スカイツリーf:id:gaganbox:20210711221624j:image

〈月と五重塔
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〈西参道商店街〉
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花やしき通り
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ほおずき…

鳴らそうと思って鳴らせなかった

幼き頃の幽かな記憶…

文京区根津権現様界隈

梅雨の間の好天に誘われ、久し振りに散歩をした。言問通りを真っ直ぐ根津方面へ緩やかな坂道を下がって行くと不忍通りと交差する地点、根津1丁目に出る。

この地区は文(ふみ)の京(みやこ)、文京区であり、その名の通り東大や日本医科大学お茶の水女子大学東京医科歯科大学等の大学や高校が多数存在する。又森鴎外夏目漱石石川啄木坪内逍遥等小説家も数多く住んでいた。

 

〈交差点角に昔から有る赤札堂、千代田線

根津駅入口も近くにある〉
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有名な根津権現様は千代田線の根津駅千駄木駅の中間地点にある。

写真は権現様近くにある名店の一部f:id:gaganbox:20210618170448j:image
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〈芋甚のアベックアイスあんみつ〉
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上からいつ行っても客が絶えない蕎麦処よし房(客席は15,6席と少く、天せいろは1800円)甘味処の芋甚は1910年代創業の老舗、並ばないと買えない根津のたい焼き(現在1匹210円)、参道入口にある金太郎飴。

 

〈参道入口の傍に建つ2007年に竣工された

日本医科大学大学院基礎研究所病棟

シンプルでシックな外観はアーティスティックな雰囲気を醸し出す〉
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〈参道入口〉
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左側の坂道は本郷台から権現様参道に至る坂で権現坂と呼ばれるが、通称S坂とも呼ばれている。此れは鴎外が51歳の時発表した小説「青年」のなかで「地図では知れないが、割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲している」の文章から来ており、旧制一高の生徒たちが「青年」を読み好んでこの坂をS坂と呼んだことによる。

鴎外は30歳の頃この近くの団子坂上に居を構えた。2階からは遥か品川沖の白浪が見えることから観潮楼と称し、大正11年(1922)60歳で没するまでこの地に住んでいた。

現在その跡地には平成24年(2012)11月に開館された文京区立森鴎外記念館が建っている。

 

この権現坂を登ると東大球場があり、そこは既に旧制一高寮歌向ヶ丘(岡)にそそり立つ五寮の健児意気高しとあるように向ヶ丘の台地であり、地震研究所、東大農学部の敷地である。野球場は通常観戦出来るが現在はコロナ下で門扉は閉鎖されている。

〈向ヶ丘台地〉

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地震研究所〉

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再び、権現様に戻り境内を散歩した。

根津権現は1900年前に日本武尊千駄木に創祀したとされ、主祭神須佐之男命、大山咋命誉田別命である。権現とは神仏混淆思想による本地垂迹説から八百万の神々が仏や菩薩の姿に化身し日本の地に現れたとの意である。明治政府の神仏分離令により権現という言葉は衰退した。

現在の社殿は宝永3年(1706)徳川5代将軍綱吉が、世継ぎの綱豊(6代家宣)の産土神ととして創建した。本殿、弊殿、拝殿を構造的に一体化させた権現造りである。

〈神橋と桜門〉
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〈唐門〉
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〈乙女稲荷神社〉
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〈千本鳥居〉
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〈社殿〉
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5月初旬にも今年はどうか?と思い立って足を伸ばして来てみたが開花時期はとうに過ぎていた。

境内の石椅子に腰掛け、茶を飲みながら鯛焼きを頬張るのも一興かと。

余談になるが東京の三大鯛焼きは麻布の浪花屋総本店、四谷のわかば日本橋甘酒横丁の柳家である。根津の鯛焼き柳家から暖簾分けされた店。

何れの店でも一丁焼きの金型を使って1個ずつ焼き上げる天然ものである。

個人的には浪花屋総本店とわかば鯛焼きが美味いと思う。

 

以下の躑躅(ツツジ)の写真は2018年4月中頃に撮影したもの。ツツジは約100種類、3000株に及ぶ。

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盛りなる 花曼荼羅の 躑躅かな

             高浜虚子

春愁の かぎりを躑躅 燃えにけり

             水原秋櫻子

 


西門を出ると根津谷から本郷通りに上る根津裏門坂通りであり、向かい側には日本医科大学附属病院がある。この裏門坂を上った処に嘗て漱石の“猫の家”があり、傑作「吾輩は猫である」はそこで執筆された。

〈裏門坂通りにある日本医科大学附属病院、現在新病棟建設中で完成は今年度末予定とある〉
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坂上にある日本医科大学

1876年創設の済生学舎を前進とした、最も古い医学校の一つで済生救民を掲げて創学された。昭和27年(1952)に現在の学校法人日本医科大学となる。
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〈この地区には古くからある甘味処が多い。附属病院側にある明治年36年創業の一炉庵〉
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〈団子坂下交差点〉

不忍通りを更に千駄木方面へ向かうと、団子坂下交差点に出る。団子坂の由来はこの地に団子屋があったとか坂が急で悪路であるので雨が降ると団子のように転がってしまうからとか諸説ある。又七面坂、潮見坂とも云われる。

団子坂上には前述した鴎外が住んだ観潮楼や以前2019年3月当ブログで大杉栄について書いた折に触れたことのある女性解放運動の先駆者平塚らいてう明治44年に立ち上げた青鞜社も嘗てこの地にあった。f:id:gaganbox:20210620181454j:image

〈柳通りにある甘味処「百」もも〉

甘味処であるがビーフカレーや野菜ラーメンもある。此処で昼食を摂った際、柳はいつ頃からあるのかと店主に訊ねたが「私にも分らず開店した頃は既に柳があった」との答えだった。
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この先が三崎坂で坂を登ると谷中の台地となり、さくら通りを過ぎ、もみじ坂を下ると日暮里駅へと行き着く。
根津神社での休憩を挿んだ、約3時間程のゆったりとした一廻りの散歩について書いたが、何とも纏まりのない記述になってしまった。



 

コロナワクチン第1回接種を受けての身体的変化

 

〈接種ワクチン製剤〉

接種ワクチンはファイザー・ビオンテック社のコミナティ筋注製剤、有効成分はトジナメランで含量0.025mg,容量0.45mL製剤を日局生食注1.8mLに溶解したものを1回につき0.3mL筋注する。添加物としてPED❨ポリエチレングリコール❩、コレステロール、NaCl、KCl等を含む。2020年12月アメリFDAが緊急使用を許可し、日本では2021年2月に承認された。コミナティの意はCOVID19、mRNA、コミュニティ(community)、免疫(immunity)という用語を組み合わせたもの。

現在日本で承認されているCOVD19ワクチンはこのワクチンのみであるが、今月(5月末)にはモデルナ社のワクチンも承認される。これは今月から始まる東京、大阪で行われる大規模接種センターで使用される。使用量は1回0.5mLで希釈が不要であることと、ファイザー社製が解凍後5日間(溶解後は5時間)に対してモデルナ社は30日間の保存が可能なので接種者にとっては使い勝手が良いと思われる。

このブログを書いている途中、ファイザー社製のワクチンがヨーロッパにおいて解凍後2~8℃で1ヶ月間保存出来るようになったとの報道があった。

いずれもmRNAワクチンでSARS-CoV-2のスパイク蛋白質アミノ酸をコードするDNAを鋳型として転写したRNAを精製し、脂質成分と混合したもので、ウィルスS蛋白質の生体内でのACE2受容体への活性を阻害する。

mはメッセンジャーの略で、伝令、伝達の意。mRNA蛋白質に翻訳する遺伝子の配列情報をコードし、これに従い蛋白質を作る。

RNAの開発自体は1990年代に遡るがmRNAは壊れやすく、作成には高度の技術が必要であった。この技術的難題及び副作用の壁のため多くの企業は製剤化を放棄せざるを得なかった。

2010年バイオテクノロジー企業であるモデルナやビオンテック社が設立され、mRNAに焦点を当てた技術開発が進められ、DDS(ドラッグデリバリーシステム)を応用、特殊な脂質ナノ粒子でmRNAカプセル化したことでヒト細胞内への移行を可能にし実用化に成功した。ヒトへの使用が許可されたのは2020年12月以降である。但し承認はされなかったものの2018年にはモデルナ社がmRNAワクチンをインフルエンザワクチンとして使用した治験がドイツで行われている。

 

これ迄日本で承認されているワクチン製剤は弱毒生ワクチン、不活化ワクチン又はトキソイド製剤であり、いずれも細菌或はウィルスを培養し製剤化したものであるが、今回のファイザー、モデルナ社の核酸ワクチンは培養を必要とせず、+鎖1本鎖SARS-CoV-2の感染源であるS(スパイク)蛋白質を設計する遺伝子領域の情報を元に人工的にS蛋白を合成させる核酸ワクチンであり、ワクチン史上初の画期的な製剤である。ワクチンmRNAはヒトの細胞内に入り、S蛋白質を作る。細胞内に入ったmRNAは1週間程度で分解し体内には留まらない。又核内に侵入ることはないので遺伝子に影響を与えることもない。mRNAが作り出したS蛋白は免疫系に記憶され、次に抗原が体内に侵入した場合、ヒトはこれを異物と認識し、T細胞やキラー細胞等免疫系が働き抗体を活性化させ感染の重症化を防ぐ。

 

アストラゼネカ社のワクチンはチンパンジーアデノウイルスベクター(運び屋)としたDNAワクチンであり、ヒト細胞内でRNAに変換されファイザー・モデルナ社製剤と

同様に作用を発揮する。J&J社のワクチンはヒトアデノウイルスベクターとして使用したDNAワクチン製剤である。2社製剤とも僅かではあるが血栓の副作用が報告されている。

概ねDNAワクチンよりmRNAワクチンの方が効果は高く、副反応も少ない傾向にある。

いずれのワクチンもどの程度効果が持続するか、或は次々と現れる変異株への対応が

可能かどうかは未だ不確定である。

日本では大阪大学と提携する創薬ベンチャーアンジェス社のDNAワクチンが先行しているようだがフェーズⅢが難航していると聞く。

 

 これら核酸ワクチンは従来型のワクチンとは異なり、遺伝子配列が解読できれば開発

スピードは速く、病原性を持たないので安全性も高く、変異株への対応も迅速に行えるので今後のワクチン製剤の主流になると考えられる。1796年イギリスのジェンナーが天然痘に牛痘を接種して以来225年、ワクチン製剤は画期的な変革を向かえた。尚この時の雌牛牛痘を意味するラテン語variolae.vaccinaeがワクチン(vaccine)の語源となっている。

 

〈ワクチン接種の理由〉

この史上初のワクチンが身体でどのように作用するのかに興味があったこと、SARS-CoV-2が以外にしぶとく様々な変異株を作りながら15ヶ月以上経ってもまだ感染が治まらないこと、日本の検疫体制が全く機能していないこと等が理由である。

2021年4月半ばインドで毎日20万人以上の新規感染者が報告され4月末には40万人に膨れ上がったにも拘らず日本政府が規制強化に乗出したのは5月に入ってからで、しかも、5/1には3日間の隔離、5/10に6日間の隔離、5/14になってやっと入国禁止措置となった。感染率がどうであれ感染者が多ければ国内へのインド変異株は自然に入って来る。規制される迄は定期便は飛んでおり、4000人以上がインドから入国していることから、インド株が国内に定着していると考えるのが普通であろう。増してインド株を特定するPCR検査は行われておらず、その内の300人と連絡不通の状態となっている。武漢ウィルス、イギリス株の時と同様水際対策は全く改善されておらず、国家としての危機意識がまるで無く、変異株は幾らでも入って来る。自己感染対策が基本ではあるもののこの検疫のだだ漏れ状況では自己の感染対策だけでは対応できない。

 

〈変異株の種類の一部〉

イギリス株はN501Yと呼ばれS蛋白1286アミノ酸残基の501番目のアミノ酸がN(アルギニン)からY(チロシン)に置き換わったものである。このようにたった1ヶ所のアミノ酸置換で感染力は1.5倍となる。

インド株はL452R(452番目のロイシンがアルギニンに置き換わったもの)、E484Q(484番目のグルタミン酸がグルタミンに置き換わったもの)で2つのアミノ酸が置換されている2重変異である。他に西ベンガルの3重変異株も確認されている。

 

〈現在の感染状況〉

ジョンズ・ホプキンス大学のデータによれば世界の感染者は現在1億6千万人を超え、

死者数は336万人に達する。日本では感染者70万人、死者1万1千人を超えている。筆者が昨年ブログを書いた時(2020.7月)の世界の感染者は1400万人、死者数は60万人であった。10カ月の間に感染者は10倍以上、死者数は6倍近くになっている。感染者はほゞ全世界に拡がり、国内に於いても47都道府県全てに感染者が出ており、死亡者がゼロであるのは島根県1県のみである。まさに世界史上かって無い程の驚くべきウィルスである。しかも元来変異しやすいRNA遺伝子ウィルスであることからS蛋白を作る領域の遺伝子配列ACGUの配列変化により感染力及び毒性の強弱はあるもののS蛋白変異ウィルスは無限に出現し得るとも考えられる。

 

医療機関が多いにも拘らず日本で医療崩壊を起こしやすいのは、多くの民間医療機関がコロナ患者を診ないからである。中川という日本医師会会長は政府に苦言は呈するが、自らの医師会改革には一言も発しない。国民が生命の危機に曝されているとき、医師会代表として、自ら率先し、感染対策に手を挙げる医療機関を僅かでも増やし、この緊急事態を乗り切る一助となり、国民の生命を守ろうとする医師としての責務がその言動からは全く感じられない。

 

横浜市立大学の報告〉

横浜市立大学の報告によればワクチン2回目接種後の未感染の医療従事者105人に対して従来型ウィルス、その他7種の変異株ウィルスに対してファイザー社のワクチン接種後の効果を追跡したところ、従来型ウィルスでは1回目57%、2回目99%、その他の7種の変異株では1回目で16~55%であるが2回接種では全ての変異株で90~98%の高い有効率が示された。また既感染者6人に対して行ったところでは1回のワクチン接種で90%以上の中和抗体が獲得されていたと云う。この報告を見るとワクチンの2回接種により中和抗体が獲得されているので抑制効果は期待されるが、抗体活性も十分な機能が発揮されていることが望まれる。

 

〈接種前の準備〉

検温し、接種表、予診表、健康保険証を持参し、予診表には記入漏れが無いようにすること。

肩部を直ぐ出せる服装で行く事。

接種自体は数秒で終わり、痛みは殆ど無く、少なくとも皮下注よりは極めて少ない。

その後15~30分経過を診てショック、アナフィラキシー等の副反応がなければ終了。

 

〈接種後の身体的変化〉

11時に接種を受けたが接種直後から5~6時間は何ら反応は無かった。

5〜6時間を経て、微熱(筆者の平熱は36.2~3℃)、倦怠感があらわれた。17時36.7、18時36.7、19時36.5、20時36.3℃と3時間後に平熱に戻った。僅か0.3mLの薬液だが如何にも体内で免疫反応が起きていることが実感出来た。翌日も短時間ではあったものの同様の症状があらわれた。が翌々日にはそれ等の症状は全て消失した。但し2回接種後は比較的強い副反応があらわれるものと思われる。

 

以上がファイザー社コロナワクチンの第1回接種後の経緯である。

 

 

 

 

 

彰義隊と上野戦争

彰義隊墓所の桜〉f:id:gaganbox:20210504234644j:image
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慶應4年(1868)大阪から逃げ戻った慶喜は上野寛永寺に謹慎した。彰義隊は新政府に恭順を示 している慶喜を守るべく、或いは徳川家を再興すべく一橋家や幕臣が中心となり、檄文を著し、同盟を結成したのが始まりで、数回の会合を経て、浅草本願寺に集結し、大義を彰かにしようという意味から彰義隊と名付け、本格的な活動を開始する。拠点はやがて上野寛永寺となる。

最盛期は3000人以上が集まり、大所帯となった彰義隊であったが、所詮は烏合の衆に過ぎなかったとも云える。新政府軍指揮官大村の討伐布告により、多くは戦線を離脱し、実際に戦ったのは1000人程であった。戦は激しいものであったが戦況が結着した夕刻迄に、大村が逃道として予め空けておいた根岸方面から奥羽、越後、蝦夷地に散らばって行った者も多く、上野での死者は約200~300人程であった。戦後荼毘に付されたまま放置されていた戦死者の亡骸は明治7年政府の許可を得て山王台近くの墓所に埋葬されることになった。現在墓所には「明治7年政府の許可を得て、墓を立てることになったとある」のが1枚、「政府を慮り墓碑銘は記されなかったが明治14年(1881)に元彰義隊小川興郷らによって墓が造立されたとある」台東区教育委員会のものが1枚の2つの立て看板がある。上の写真の墓は明治14年に建てられたものと思われる。

この遠慮がちに建てられた墓所にも毎年春が来れば桜は咲く。

その墓所前、10m有るか無きかの山王台に、明治31年政府は上野の山から東京を見おろしているかのような西郷像(高村光雲作)を建てた。

まるで彰義隊への嫌がらせであるかのように。

 

上野寛永寺は徳川家大墓所であって、家康が僧天海に命じ、秀忠の時代に創建が開始された。東叡山延暦寺として、西の比叡山に匹敵する規模にとすることとされ、現在の上野松坂屋附近の広小路から参道となり、黒門(寛永寺総門)を通って参拝し、根本中堂をくぐり抜け(現在の公園噴水あたり)、奥の院(現在の国立東京博物館)まで至る。面積は不忍池から藝大、かって国会図書館があった辺りまで全てが東叡山延暦寺であった。彰義隊は此処に立てこもり新政府軍に対峙した。江戸総督官は西郷であったが京都新政府は江藤新平の報告により、勝海舟に取り込まれた西郷の江戸治安維持の方針を覆し、彰義隊討伐を決断、指揮官として大村益次郎を江戸に送り込んだ。上野戦争戊辰戦争唯一江戸で行われた首都攻防戦であり、これに勝利することはその後の奥羽越後の戦争を左右し、延いては新政府の存在に関わる重大な局面となるところ、大村の巧みな戦略により江戸を火の海にすることなく、新政府軍は僅か半日で上野戦争を制した。

 

上野戦争最大の激戦地黒門跡地(広小路方面から見れば山王台の右下方にあった)

当時の黒門は南千住の円通寺に保存されている。大村益次郎の命により、西郷率いる薩摩軍がこの最激戦地を担当した>
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<清水観音堂。ここに於いても激しい戦いが繰り広げられたが焼失は免れた。堂内には当時使用された砲弾が展示されている(但し堂内は撮影禁止)>
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清水坂を登り、清水の舞台から月の松越しに不忍池辯天堂を臨む。>
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不忍池~上野公園~天王台>
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戦いの前半は彰義隊が有利に進めていたが、新政府軍指揮官大村の命により、まるで頃合を見計らったように加賀藩邸本郷台台地に装備してあった最新砲アームストロング2門が不忍池を通り越し、上野山王台目掛けて火を噴いた。

本郷台は現在の東京大学がある場所で、筆者は何度か本郷台から上野公園まで歩いたことがあるが当時の砲弾の飛距離としては相当なものであることを感じた。この最新砲と旧式砲を混じえた新政府軍の射列攻撃により寛永寺の壮大な建造物は悉く灰燼に帰した。彰義隊の戦意は消失し、新政府軍に捕らえられた者もあったが多くは散々になり逃亡した。

僅か半日の勝負とはいえ上野戦争の意義は大きく、江戸の空気は一気に新政府成立に傾いた。京都首脳が徳川に課した条件、徳川家の800万石から70万石への禄高削減、慶喜駿府蟄居、武器放棄に対して最早誰一人抗議するものはなかった。

こうして江戸は1000年の都である京都に対して、事実上の首都である、東のみやこ、東京になっていくのである。