さくら通り日本橋2丁目から八重洲迄

日本橋川神田川から分流し、隅田川流入する。橋を境に西川は日本橋一丁目、高島屋は2丁目、川を越えるとコレド室町がある室町、日銀、三越がある本石町となる。

日本橋の上を首都高速道が覆うようになってからほゞ60年が経過する。神田橋から江戸橋JCT間の地下化が決定され、首都高江戸橋出入口と呉服橋出入口は既に廃止された。これに伴い三井、野村不動産等による大規模プロジェクトが計画され、オフィスビル、複合商業施設の建設や、八重洲から日本橋の川沿いに親水公園が整備される。日本橋上の重苦しい覆いが取除かれ空が戻って来る。

伝統と未来が融合した緑豊かな空間が拡がるだろう。

とは言え自分がやがて戻る其の空を見ることは無い。

 

 

高島屋側に日本橋2丁目さくら通りがある。

4/2に行ったが満開は過ぎていた。

 

日本橋高島屋1階玄関ホールに飾られた草月流勅使河原茜家元のいけばなインスタレーションアート〉
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高島屋旧館傍のさくら通り〉
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日本橋交差点方面に戻ってパティスリー東洋で食事を摂ることにした。銀座線日本橋駅を出て直ぐの処に在る。

1963年(昭和38)甘味処として始まり、3年後の昭和41年洋食レストランを開店した。

50年以上続いている懐かしい味処。1階が洋菓子、2階がレストランになっているが今日は洋菓子、洋食とも2階での対応となった。

店内は広く奥行きもある。日本橋と中央通りが見渡せる窓際の席に案内された。f:id:gaganbox:20220404022303j:imagef:id:gaganbox:20220404022324j:imagef:id:gaganbox:20220404022453j:image
〈向い側はコレド日本橋
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〈スープとサラダセット〉
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〈和風ステーキ 1600円、超一等地に在るレストランにも拘わらず驚く程リーズナブル〉
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〈コーヒーフロート 700円〉f:id:gaganbox:20220404023023j:image

 

日本橋袂の桜〉
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〈榮太樓總本鋪。1857年創業、安政の頃から変わらぬ場所にある〉
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〈毎日行列が絶えないうさぎ屋。ここでどら焼2個、最中2個、和菓子2個を買った〉
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丸善書店からは八重洲1丁目となり東京駅大丸に至る〉
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八重洲地下街を歩いてから、大丸百貨店へ立ち寄り菓子類を物色した。幾つか買いたいスィーツがあったがうさぎ屋の和菓子を既に買ってしまったので今回は断念してJR東京駅から帰途に就いた。この日は日本橋周辺を約3時間程彷徨った。

日本橋三越屋上,向島,濹東の話

冬晴れの澄んだ青空は実に清々しいものであった。

日本橋屋上庭園〉

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〈紅梅〉

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言問橋を渡った隅田川の向う側を向島と呼び、この地域全体を濹東と称する。

この地にある三圍(みめぐり)神社は三井家の本拠地である江戸本町から見て東北の方角、所謂鬼門に当たることから三圍は「三井に通じ、三井を護る」ことから三井家の守護神として代々崇拝してきた。

謂われは古く、今から六百数十年前に、近江三井寺の僧源慶が東国を巡錫(じゅんしゃく)中、隅田川牛嶋畔で小さい祠を発見したことに始まる。源慶はこの荒れ果て祠が弘法大師建立の社と知るに及び、直ちに再建に着手しようと試みた。その際床下にあった壺が発掘されたのであったが、その壺を開けると老翁の神像が姿を見せた。すると忽然として白狐が現れその神像の廻りを三度廻って何処ともなく消え去ったと云う。この伝説に起因して、爾今(じこん)この社を三圍と称するようになったと伝えられている。

また元禄6年(1693)の旱魃の際、俳聖室井其角は「牛嶋三圍の神前にて雨乞いするものにかはりて」の前書に続き「夕立や田をみめぐりの神ならば」と一句献ずると翌日には早速雨が降ったとの記述がある。

爾来何でも願い事が叶う縁起の良い神として庶民より崇め讃えられた。

 

 

余談だが永井荷風の小説「濹東綺譚」はこの向島に在った玉の井の私娼窟を舞台にした物語である。ほゞ荷風の自伝作と云える。

梅雨時に急に降り出した大雨の中、お雪が「檀那、そこまで入れてってよ」と小説家大江に声掛けしたことに始まる出会いから、秋の別離迄の数ヵ月間にわたるお雪と大江との交情を描いたもので、大江にとってお雪は創作意欲を刺激するミューズであった。

「お雪と私とは真暗な二階の窓に倚って、互に汗ばむ手を取りながら、ただそれともなく謎のような事を言って語り合った時、突然閃き落ちる稲妻に照らされたその横顔。それは今もありありと目に残って消え去らずにいる」

「私とお雪とは、互にその本名もその住所も知らずにしまった。ただ濹東の裏町、蚊のわめく溝際の家で狎(な)れ暱(した)しんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である」等の文章も然ることながら、挿絵が随処に画かれており、陋巷(ろうこう)とした、ラビラント(迷宮)の一隅の艶かしく、何処か儚い当時の玉の井の情景が彷彿として浮かんでくるかのような物語である。

荷風麻布区市兵衛町1丁目6番地、現在の六本木泉通りに偏奇館(泉ガーデン敷地内に跡地の石碑が建っている)と称した自宅を新築した。偏奇館の名は洋風のペンキ塗りと偏窟漢である荷風自身を捩って付けられたようだ。畳はなく、女中を雇ったり、女を連れてくることはあったにしても、基本的には独り身で不必要なものは置かなかった。この館で執筆を行い、執筆に倦んでくると気の向く儘に銀座や浅草、或は向島まで行き密かに遊興の時間を過ごした。大正9年から昭和20年東京大空襲で焼失されるまでの25年間を過ごし、荷風が最も長く定住した場所であり、濹東綺譚もここで執筆された。綺譚執筆時は57歳であるから当時としては老境に入った頃であるが相変わらず女漁りは止まなかった。

 

作家には変り者が多いが荷風もその一人に数えられる。

以下は30歳頃の短編集「ふらんす物語」(発売当時は風紀を紊すとの理由で発禁処分となった)から荷風の変人振り、或は耽美的、浪漫的な思考を垣間見せる文中の言葉を幾つか引用してみた。

「浮浪。無宿。漂泊。嗚呼その発音は、いつもながらどうしてこうも悲しく、又懐かしく自分の胸の底深く響のであろう」

「浮浪、これが人生の真の声ではあるまいか」

「死ぬ時節が来れば独りで勝手に死んで行けばよい」

「習慣が"生恥"(いきはじ)と名付けた言葉の中には、なんと云う現しがたい悲愁の美が含まれているであろう」

「滑らかな口先ばかりのお世辞を聞くと、自分は今更の如く"世間"とか"生活"とか云う不思議な力の働きを感じない訳には行かない」

「霧立ちこめる街の面は、祭の夜に異ならぬ燈火の綺羅めき、往来の人の影。ああ、今年も今夜限り、去って再び還っては来ぬのかと思うと、何となく悲しいような、そして俄に心の急(せ)き立つような気になる」

「生きようと悶く、餓えまいと焦る。この避く可からざる人の運命を見る程悲惨なものはあるまい」

以上の余談は濹東地域に本社があった三圍神社から永井荷風の濹東綺譚を想起したもので、日本橋三越屋上に鎮座する三圍神社との関連性はない。

 

余談が長くなってしまつたが、日本橋三越屋上の三圍神社に戻る。

日本橋三越屋上に在る三圍神社は

1914年(大正3)に濹東にある本宮から分霊され祀られた。

当店の鬼門を鎮座し、遠く富士の高嶺と相対す。秋晴一発、八百八街は云うふも更、関八州の山々も房総の海も、悉く神前の廣庭の眺めとなったので御座いました。とあるように、当時の三越屋上からの眺望は絶景であったことが窺われる。

境内には福徳を授ける「活動大黒天」も奉斎されている。

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至福の時

月2回 茜が来る

ビーナスの子がもたらす定期便

テレビを見ながら雑談する

入浴前にパルスオキシメータを測る

茜は常に99%である

「私は99%の女なの」と自ら言う

源次は95∼97%の間を揺れ動く

99%になったことは1度もない

 

確かめ合い、求め合う肌の温もり

3年の月日は短い

源次は「来年は死ぬのだ」と茜に伝えてある

「私が面倒みるから生きて」と茜は言う

「今年の夏は伊豆の下田に海を見に行こう、

東京から"特急踊り子号"で直通だから

其処でただぼんやり海を見るの」と茜

 

シャワーを浴びた後

珈琲とデザートを楽しむ

至福の時間

情容赦なく過ぎ行く時間

ドアの外 遠ざかる愛おしき靴の音(ね)

 

忍び寄る死の影

源次は死の誘いに抗えるだろうか

不可だ!抗えたところで後は無い

消えて行く一瞬    束の間の仕合わせ

交錯する久遠の時間と底無しの空虚

星の無い暗い空

小窓から見える高層ビルの斑な部屋の灯り

走り行く電車

存在の不確実性

 

 

 

 

 

 

 

日本橋逍遙

予てより訪れたいと思っていた江戸さくら通りにあるレストラン「桂」、そこでランチでもしようかと久し振りに日本橋へ出かけた。

桂は1963年(昭和38)創業の老舗レストランであり、室町界隈の人々のみならず有名人も訪れる西洋料理の名店である。隣には文明堂の洒落たカフェがある。


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〈コーンポタージュスープ上

ポークソテーと鱸のフライ揚げ〉
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ランチ時は引切り無しに客が出入りし、

二昔前はお姉様であったであろう3人の方々が手際よく店内を切盛りしている。

この後客の出入りが激しく落ち着かないので、桂を出で路地裏を少し歩いてから三越日本橋珈琲館で食後のデザートを摂ることにした。

 

日本橋の路地裏〉
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三越劇場奥にある日本橋珈琲館〉f:id:gaganbox:20220224141023j:image

オレンジシフォンケーキとフレンチ珈琲 

計1430円は桂のランチより高い

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ゆったりとした落ち着いた空間だった。



 

2022年の正月休み,ベートーベン交響曲全曲を聴く

正月休みを利用し、数年前購入したきりで

未だ聴かずに置いたままにしてあったベートーベンの交響曲全曲集を2日間かけて聴いた。第1番から第9番迄と「オペラ·フィデリオのための序曲」「序曲献堂式」「エグモント序曲」「ウェリントンの勝利」等の序曲も入っているので全部聴くには計7時間弱かかる。

演奏はサー٠トーマス٠ビーチャムが1946年に創設したロイヤルフィルハーモニー管弦楽団によるものである。

創設者のビーチャムはBeecham's Pillsを創薬したビーチャム製薬(現Glaxo Smith Kline社)の創業者トーマス・ビーチャムを祖父とする裕福な家庭で育った。

ビーチャム自身は個人指導は受けたことはあるものの正式な音楽教育は受けておらずほゞ独学であった。活動範囲はひろく、自身のオーケストラの他ニューヨーク・フィルハーモニックザルツブルグ音楽祭、メトロポリタン歌劇場等で指揮しイギリス音楽界に多大な影響を与えた。ロンドンの格式あるオーケストラの中でも唯一ロイヤルの称号が許されていることから女王様のオーケストラとも呼ばれる。

CD自体はどこかの店のワゴンセールで購入した廉価版であり、1986~1989年にかけて録音されたものだが、指揮者名の記載はない。

後に判明したがロイヤルフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者でもなく日本では殆ど知られていないので指揮者名は省略する。

 

ベートーベンの交響曲は各曲既に聴いてはいたが、全曲通して聴くのは初めてのことだった。第6番田園の第1楽章の音が飛び殆ど聴き取れないのが残念だがベートーヴェン交響曲入門としては手頃なものかも知れない。但しベートーヴェンに限らず名曲名盤と云われるものを一通り聴いておくことも必要と思われる。それらが必ずしも己の感性に合致するとは限らないが、長年にわたり伝えられているものは其なりの価値が認められているものであろうから1つの指標にはなると云える。

或いは先入観無しにレコードCDショップで、偶然ジャケットや曲の説明を見て買ってみたものが自分にとっての名曲になることも有り得ることだ。

 

私はmoll系の曲が好みなのだが、ベートーベンの交響曲短調は第5番の「運命」と第9番の「合唱付」の2つである。勿論各楽章により長調短調は存在する。

この2曲が傑作であることは、誰も否定しないだろうし、私もそう思う。

だが私はこの2曲が余り好きではない。

5番のあのダダダダーンという始まりを聴くと些かげんなりしてしまい、その後を聴く意欲がなくなってしまう。しかし好きではないにしろ私はフルトベングラー2枚、1974年カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、今般聴いたものを入れると4枚のCDを持っている。

 

9番の合唱はドイツの文学者シラーの歓喜の歌の詩によるものだが、あの友愛や人類愛を延々と歌い上げる合唱に私は気味の悪さしか感じない。

 

参照までに以下に詩を書いておく。

「おお友、それならぬ、楽しく、深く、

   歓喜に満てる歌を」

この最初の詩はベートーヴェン自身のもので以下はシラーの詩による。

大部分省略してあるがAndie Freude「歓喜に寄する」賛歌で尾崎喜八譯による。

歓喜、聖なる神の焔よ、耀く面もて我等は     進む。裂かれし者等を合はす汝が手に

   諸人結びて同胞となる………

   萬の物皆、自然を生きて、並べての人皆、       光に浴みす………

   捧げよ諸人、人の誠を、父こそ、ゐませ、       星空の上に。仰げよ同胞、けだかき父を。       ひとりの父を、星空の上に」

 

シラーは若き日にゲーテと共にSturm und Drang(疾風怒濤)時代をリードした文学者であり、私は学生の頃、筑摩世界文学体系により「群盗」「オルレアンの処女」「たくらみと恋」等を読んでいるが、同時期に読んだゲーテの「若きヴェルテルの悩み」や「ファウスト」の印象が余りにも強く、シラーの作品に付いては殆ど記憶がない。増してこの歓喜の歌の詩を読んでからは尚更読み直す気も失せた。

 

日本でも9番の演奏歴史は長く、旧くは1918年(大正18)徳島坂東町でドイツ軍俘虜収容所で俘虜のドイツ兵により演奏されたことが始まりであったと云う。収容所所長は俘虜であるドイツ兵に自由に音楽を演奏させていたようだ。

 

発売されているCDは多いが、言わずと知れたフルトベングラー指揮バイロイト祝祭劇場管弦楽団のあの余りに有名なEMI-1951年7月29日の演奏録音は聴いておくべきだと思う。これはセンター盤を一部編集したものと云われているが、それでも尚且つ素晴らしい。当時の詳細な録音状況は不明だが数カ国の放送局か録音に参加しているらしく、最近ではスウェーデン放送の1951年度バイロイト完全録音盤が発売されているようだ。その他私は未聴であるがやはりフルトベングラー指揮の1954年のルツェルン盤が名盤と云われている。

 

バイロイト祝祭劇場はこれ迄の音楽劇場に満足していなかったリヒャルト·ワーグナーが自ら設計した独特の木造建築であり、ワーグナーの楽劇を演奏するために造られた。

但し1872年の定礎式ではワーグナー自身の指揮でベートーヴェンの第9が演奏された。ワーグナーが第9に大いなる影響を受けていることが窺い知れる。このことからバイロイト祝祭劇場ではワーグナーの作品以外では唯一ベートーヴェンの第9番が不定期に演奏されている。

劇場完成後の1876年の初演演奏はワーグナー演出、ハンス・リヒター指揮楽劇ニーベルングの指環であった。

第二次世界大戦の影響で暫く閉鎖されていたこの劇場で復活コンサートとして行われた演奏が、前述した1951年のフルトベングラー指揮祝祭劇場管弦楽団によるベートーヴェン交響曲第9番であった。

 

因みにCDの録音時間はソニー社12cm74分とフィリップス社11.5cm60分という異なったサイズ、時間であったが、カラヤンの意見からこの9番が収まる70分前後というソニーの案に結着したと云われている。

 

私がこよなく愛するのは3番英雄変ホ長調と7番イ長調であり、いすれもdurであるが、この2曲はあらゆる交響曲中最も好きな曲である。

 

3番はハイリゲンシュタットの遺書を書き上げた2年後に作曲された。当初はボナパルト(ナポレオン)へ献呈する曲「ボナパルト」と草稿されたが、ナポレオンが皇帝になることを聞き及び「彼も単なる俗物に過ぎなかったか」とベートーヴェンは激怒したと云う。彼は献呈辞を引き裂き「一人の偉人の追憶を讃えるための英雄交響曲」と名を変えた。その後1821年セントヘレナ島へ幽閉され悲劇的な末路を辿ったナポレオンの事を聞き、「私は既に17年前に彼について哀れな運命に相応する曲を作っおいたのだ」と述べ1人興じていたと云う。

私は第2楽章のアダージョアッサイ葬送行進曲(この楽章のみハ短調)が特に好きだが全4楽章を通して凌駕すべき曲がないような名曲だと思う。

今回聴いたものの他にやはりフルトベングラーの名盤と云われる1952年盤を持っている。曰く付きの1944年のウラニア盤も聴いた。他にはクレンペラートスカニーニ指揮のものも聴いている。

ベートーヴェン自身は自分が作曲した交響曲の中では躊躇なくこの第3番が最も良いものと言っている。

 

7番に付いては第2楽章不滅のアレグレット(イ短調)に深い感動を覚える。何度聴いても魂が揺れる。最初に聴いたのはカルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー楽団の1975年の演奏であり、この最初の感動が忘れられず、他の指揮者のもの或いは演奏会で何度か聴くことはあったが結局クライバー指揮のものに落ち着いてしまう。

 

ベートーヴェンの3本柱は交響曲(9曲)、ピアノソナタ(32曲)、弦楽四重奏曲(16曲)

から成っている。交響曲ピアノソナタは全曲聴いているが弦楽四重奏曲については残念ながら私は中期のラズモフスキー、ハープ、セリオーソ、後期の14番、名曲といわれる15番は聴いたが、その他の曲は未だ聴き及んでない。

 

 

ビアノソナタ最後の曲32番は1822年に作曲され、交響曲最後の9番は1824年に完成された。弦楽四重奏の第1番が作曲されたのは1800年のことであり、その後も死の前年1826年まで書き続けられている。1824年交響曲第9番の完成後からも、弦楽四重奏曲は第12番~16番の5曲が作曲されていることからベートーヴェン弦楽四重奏曲に対する思い入れは相当のものと考えられる。

交響曲ピアノソナタと違い四重奏曲集は難解であり、一般人が理解するのは困難に思える。従って殆どが30分以上である全曲を聴くことは私にはどうも出来そうにない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セントラルドグマ,PCRのおもろい仕組み

DNA→転写→mRNA→翻訳→蛋白質

はイギリスの分子生物学者クリックによって提唱された。

遺伝情報の流れを示したもので、あらゆる生物の中心教義である。一方向性で逆向きはない。

一部逆転写酵素をもつレトロウィルスでこれに従わないものもある。(ウィルスが生物かどうかは未だに確定していない)

又近年短い2本鎖RNAが特定のmRNAに作用し、mRNAの翻訳を制御するRNA干渉と云う現象が多数発現していることが見出だされている。

 

ヒト細胞核約10μm(1mmの100分の1)の中にはDNAがヒストン蛋白質に絡み付き23対46本の染色体を形成して存在している。その長さを合わせると2mに及ぶ。DNA2重らせん構造は逆向き相補的に対応している。必ずA-T、G-C結合であり、AとT、GとCの含量は等しい。従って一方が解ればもう一方は自ずと明らかになる。

 

PCR(Polymerase-Chain-Reaction)は加熱、冷却を繰返し、塩基間水素結合している僅かなDNA断片の2重鎖を解きプライマー、DNAポリメラーゼを加えDNAを何度か増幅させながら特定の遺伝子配列を確定する検査である。30サイクル繰返せば10億個を上回るコピーが出来る。

1本鎖コロナRNAウィルスの場合は逆転写酵素を使い一旦DNAにする工程が必要になるため、一般にはリアルRT(reseve-transcription逆転写酵素)-PCRの技術を用いる。現在ではリアルRT-PCR法を含めた全自動測定器が各社で発売されるなどSARS-CoV-2の拡がりによりPCR法は急速に発展した。

 

1983年アメリカの科学者キャリーマリスは夜の山道を彼女とドライブしていた。月明かりだけが頼りの危うい運転だったが何かしら閃きの予感がした。ホンダシビックのヘッドライトに照らし出されるアメリカ杉と曲がりくねった坂の道。暗闇の中で絡まったり解けたりする美しい2重らせんが脳裡に浮かぶ。

このDNA断片を増幅出来ないか?

世界があっと驚くPCRの発想に至った瞬間がここにあった。

この発想で1993年ノーベル化学賞を受賞した風変りな化学者キャリー·マリスはSARS

(severe-acute-respiratory-syndrome)CoV-2が世界を席捲する前の2019年8月に他界した。

ノーベル賞受賞当時PCRの発見に世界は衝撃を受けたが、その多くは科学者であり、新聞を賑わせたとしても、一般人がその名を口にすることは殆どなかったであろう。

それから27年後SARS-CoV-2のパンデミックによりPCRの名前だけは誰にでも知られるようになった。

博士が存命であったなら現状を見て果たして何を語るか、興味深いところであった。

 

 

蛋白質は20種類のアミノ酸の繋がりである。

蛋白質合成時アミノ酸の並べ方を指定するDNA部分はRNAポリメラーゼにより1本鎖に解かれつつ、この酵素は又DNA情報をmRNAに転写する役割を担う。この時解かれ1本鎖になった一方をセンス鎖(意味のある標準的、5'~3'方向)と呼び、鋳型になるもう一方をアンチセンス鎖(鋳型鎖3'~5'方向)という。

mRNAは鋳型になるアンチセンス鎖に相補的な塩基を紡いでゆくので、その配列はセンス鎖と同様の塩基配列5'~3'となる。但しこの時mRNAではT(チミン)はU(ウラシル)となる。

mRNAは蛋白合成に不要な部分を切取られたり、情報の終了部を規定される等の調整を受けながら次第に完成されて行く。調整後のmRNAは核孔膜から細胞質中に放出される。放出されたmRNAは蛋白質合成工場リボソーム及びrRNA複合体に結合し、アミノ酸合成を始める。この時mRNAの4つの塩基A(アデニン)C(シトシン)G(グアニン)U(ウラシル)の内の連続した3つの連なりが1つのアミノ酸を指定する。4つの塩基の3つの繋がり(コドン)は4×4×4=64通りとなるので、1つのアミノ酸に対して複数のコドンが存在する。

このコドンをアミノ酸に転換させるにはmRNAの情報をリボソームに運搬するt(トランスファー)RNAの働きが必須となる。tRNAはmRNAのコドンに対するアンチコドン領域を持つ。アミノアシル化酵素がこのアンチコドンを読み取り、それに相補的に対応するアミノ酸を結合させる(翻訳)。このtRNAがmRNAのコドンに対応するアミノ酸リボソームに搬びアミノ酸を紡ぎ合わせ蛋白質を合成する。

例えばCTT、CTC、CTAはロイシン、TTT、TTCフェニルアラニン、TAT、TACはチロシン等。

又蛋白合成を終了させる3つのコドンTAA、TGA、TAGを終始コドンと呼び、これによって蛋白質の合成は終了する。

細胞はアンチセンス鎖により相補的なセンス鎖を作り、アンチコドンにより相補的なコドンを作る。こうしてセントラルドグマにより生物は形造られる。

 

我々の行っていることの全ては

摂食→代謝→排泄という過程の中にある。

又1日のうちの1/3~1/4は仮死状態、即ち惰眠を貪っているのだが、それ以外の起きている時間の退屈を凌ぐため、学業に就いたり、職業に就いたり、或は遊興に耽ったり、性的戯れを為すことはあるものの基本的には上記の過程を死ぬまで繰り返す。

常に足許は崩れかけ立ち止まることは出来ない。生あるうちは死の恐怖に苛まれ安穏は無いのである。

 

 

#セントラルドグマ #PCR #キャリー・マリス#コドン #アンチコドン 

 

 

 

 

ヤマサ醤油とシュードウリジンとmRNAワクチン

5’ -5’CAP - 5’UTR - SPIKE/RBD - 3’UTR - PolyAtail - 3’

 

修飾ウリジンmRNAワクチンは以上の構成成分から成る。

S蛋白質の遺伝情報以外にmRNAの分解を抑え、蛋白合成を促進する様々なものから構成されている。

5’Cap構造は5’末端の保護とリボソームを呼込む働きをもち翻訳開始に必須であり、蛋白質合成開始複合体の形成効率を上昇させる。

このキャップ構造は1975年当時国立遺伝研究所に在職されていた三浦謹一郎、古市泰宏両博士が蚕に寄生する細胞質多角体病ウィルスのmRNA研究により初めて発見し、その論文はネイチャー誌に掲載された。mRNAは1本鎖で活性を持ち、転写された前駆体mRNAの5´末端がリン酸3個を挟んで7-メチルグアノシンに結合している。

この5'-5'間結合が丁度Capping、蓋をするような形をしていることからキャップ構造と呼ばれる。やがてこのキャップ構造がウィルスのみでなく全ての真核細胞にも存在する重要な構造であることが認識されるようになった。

47年前の発見が、まさか今日のmRNAワクチンに応用されるとは思いもよらなかったと古市博士は述べておられる。

 

(尚インフルエンザウィルスはヒトRNAのキャップ構造を盗み取り、自らの蛋白質を作る。このことは真核生物のキャップ構造発見後知られるところとなったが創薬は困難であったようで、このキャップ構造を盗み取る酵素、キャップ依存性エンドヌクレアーゼの活性を阻害する薬であり、タミフル、イナビル、ラピアクタ等のノイラミニダーゼ阻害薬とは全く作用機序が異なるゾフルーザが塩野義製薬により製造販売されたのは2018年のことである)

 

間もなく承認されると思われる同社の3CLプロテアーゼ阻害薬である抗コロナウイルス薬に期待している。既に承認されている同効薬ファイザー社のパキロビットパックは効果はあるもののリトナビルがパックされているので併用禁忌が多く使いずらい。

塩野義製薬製剤は無症状から軽症中等症患者まで服用可能で、1日1回5日間投薬と誠に使い勝手の良い内服薬と考えられる。

 

UTR(untranslated region)は転写はされるが翻訳されない非翻訳領域で上流の5'と下流

3'にあり翻訳調整機能をもつ。

 

ポリA端末はmRNAの安定性を維持する。3´はポリアデニル化によりポリA(アデニン)鎖の付加が起こる。

 

Spike/Rbdはスパイク蛋白のReceptor binding domain(受容体結合領域)でこれがまさにウィルススパイク蛋白の遺伝情報をコードする領域である。

この遺伝情報はRNA塩基AGCUに従えば、通常のヌクレオシドはアデノシン、グアノシン、シチジン、ウリジンであるがこのままの状態で体内に注入した場合は生体が免疫反応を起こし、Rbdは分解してしまい生体細胞内に到達せず又到達したとしても機能せず副反応も起こり易いということが知られていた。

 

2008年カタリン·カリコー(現ビオンテック上級副社長)、ドリュー・ワイスマン(現ペンシルベニア大学RNAイノベーション研究所所長)の両博士は4つのヌクレオシドの中でウリジンを修飾しPseudo(シュード、プソイド)化すれば生体内での免疫反応を逃れ、細胞に到達することを見出した。

Pseudoはギリシャ語のプサイΨに由来し、擬似・類似の意味を持つ。更にシュードウリジンをメチル化したN1メチルシュードウリジン(以後m1Ψ)が分解されにくく、持続性を保ち、より効果的な細胞内到達を可能にすることが明らかになった。

よってヌクレオシドはA(アデノシン)、C(シチジン)、G(グアノシン)、Y(ウリジンに代わりm1Ψ)で構成されている。

修飾ウリジンの発見、脂質ナノ粒子での封入、DDSでの運搬が今回のワクチン開発に多いに寄与した。

 

ヤマサ醤油は1645年(天保2年)に創業した、醤油造り370年を誇る銚子市にある老舗会社である。

1854年(安政元年)の時、偶々故郷和歌山県広村に帰っていた7代目は南海大地震に遭遇した。海水の干き方等の異常現象から大津波を予期し、村民に急を知らせるため田圃に積んであった稲束(稲むら)に火を投じ村民を避難させ命を救った。これはラフカディオ·ハーンの短編で紹介され、稲むらの火として嘗て小学校教科書にも載っていた。

 

後の医薬品開発のきっかけとなったのは、この会社が鰹節の旨味成分5'イノシン酸

椎茸の旨味成分5'グアニル酸を発見し、その工業化に成功したことにあった。

1970年に医薬品製造業の許可を取得し、翌年には原料製造を開始した。

特に核酸分野に於いては、供給能力、生産技術、品質ともにリーディングカンパニーであり、日本は素よりアジア、アメリカ、ヨーロッパへ輸出する等グローバルな展開をしている。

シュードウリジン或はm1Ψは既に40年以上前の1980年より海外へ試薬として輸出されていた。

今回、COVID-19ワクチンの承認を見越しての増産体制も整えられていた同社製剤は、

世界でも数少ない高品質のワクチン製剤原料として現在モデルナ社、ファイザー・ビオンテック社のいずれにも供給されている。

 

 

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