日本橋三越屋上,向島,濹東の話

冬晴れの澄んだ青空は実に清々しいものであった。

日本橋屋上庭園〉

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〈紅梅〉

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言問橋を渡った隅田川の向う側を向島と呼び、この地域全体を濹東と称する。

この地にある三圍(みめぐり)神社は三井家の本拠地である江戸本町から見て東北の方角、所謂鬼門に当たることから三圍は「三井に通じ、三井を護る」ことから三井家の守護神として代々崇拝してきた。

謂われは古く、今から六百数十年前に、近江三井寺の僧源慶が東国を巡錫(じゅんしゃく)中、隅田川牛嶋畔で小さい祠を発見したことに始まる。源慶はこの荒れ果て祠が弘法大師建立の社と知るに及び、直ちに再建に着手しようと試みた。その際床下にあった壺が発掘されたのであったが、その壺を開けると老翁の神像が姿を見せた。すると忽然として白狐が現れその神像の廻りを三度廻って何処ともなく消え去ったと云う。この伝説に起因して、爾今(じこん)この社を三圍と称するようになったと伝えられている。

また元禄6年(1693)の旱魃の際、俳聖室井其角は「牛嶋三圍の神前にて雨乞いするものにかはりて」の前書に続き「夕立や田をみめぐりの神ならば」と一句献ずると翌日には早速雨が降ったとの記述がある。

爾来何でも願い事が叶う縁起の良い神として庶民より崇め讃えられた。

 

 

余談だが永井荷風の小説「濹東綺譚」はこの向島に在った玉の井の私娼窟を舞台にした物語である。ほゞ荷風の自伝作と云える。

梅雨時に急に降り出した大雨の中、お雪が「檀那、そこまで入れてってよ」と小説家大江に声掛けしたことに始まる出会いから、秋の別離迄の数ヵ月間にわたるお雪と大江との交情を描いたもので、大江にとってお雪は創作意欲を刺激するミューズであった。

「お雪と私とは真暗な二階の窓に倚って、互に汗ばむ手を取りながら、ただそれともなく謎のような事を言って語り合った時、突然閃き落ちる稲妻に照らされたその横顔。それは今もありありと目に残って消え去らずにいる」

「私とお雪とは、互にその本名もその住所も知らずにしまった。ただ濹東の裏町、蚊のわめく溝際の家で狎(な)れ暱(した)しんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である」等の文章も然ることながら、挿絵が随処に画かれており、陋巷(ろうこう)とした、ラビラント(迷宮)の一隅の艶かしく、何処か儚い当時の玉の井の情景が彷彿として浮かんでくるかのような物語である。

荷風麻布区市兵衛町1丁目6番地、現在の六本木泉通りに偏奇館(泉ガーデン敷地内に跡地の石碑が建っている)と称した自宅を新築した。偏奇館の名は洋風のペンキ塗りと偏窟漢である荷風自身を捩って付けられたようだ。畳はなく、女中を雇ったり、女を連れてくることはあったにしても、基本的には独り身で不必要なものは置かなかった。この館で執筆を行い、執筆に倦んでくると気の向く儘に銀座や浅草、或は向島まで行き密かに遊興の時間を過ごした。大正9年から昭和20年東京大空襲で焼失されるまでの25年間を過ごし、荷風が最も長く定住した場所であり、濹東綺譚もここで執筆された。綺譚執筆時は57歳であるから当時としては老境に入った頃であるが相変わらず女漁りは止まなかった。

 

作家には変り者が多いが荷風もその一人に数えられる。

以下は30歳頃の短編集「ふらんす物語」(発売当時は風紀を紊すとの理由で発禁処分となった)から荷風の変人振り、或は耽美的、浪漫的な思考を垣間見せる文中の言葉を幾つか引用してみた。

「浮浪。無宿。漂泊。嗚呼その発音は、いつもながらどうしてこうも悲しく、又懐かしく自分の胸の底深く響のであろう」

「浮浪、これが人生の真の声ではあるまいか」

「死ぬ時節が来れば独りで勝手に死んで行けばよい」

「習慣が"生恥"(いきはじ)と名付けた言葉の中には、なんと云う現しがたい悲愁の美が含まれているであろう」

「滑らかな口先ばかりのお世辞を聞くと、自分は今更の如く"世間"とか"生活"とか云う不思議な力の働きを感じない訳には行かない」

「霧立ちこめる街の面は、祭の夜に異ならぬ燈火の綺羅めき、往来の人の影。ああ、今年も今夜限り、去って再び還っては来ぬのかと思うと、何となく悲しいような、そして俄に心の急(せ)き立つような気になる」

「生きようと悶く、餓えまいと焦る。この避く可からざる人の運命を見る程悲惨なものはあるまい」

以上の余談は濹東地域に本社があった三圍神社から永井荷風の濹東綺譚を想起したもので、日本橋三越屋上に鎮座する三圍神社との関連性はない。

 

余談が長くなってしまつたが、日本橋三越屋上の三圍神社に戻る。

日本橋三越屋上に在る三圍神社は

1914年(大正3)に濹東にある本宮から分霊され祀られた。

当店の鬼門を鎮座し、遠く富士の高嶺と相対す。秋晴一発、八百八街は云うふも更、関八州の山々も房総の海も、悉く神前の廣庭の眺めとなったので御座いました。とあるように、当時の三越屋上からの眺望は絶景であったことが窺われる。

境内には福徳を授ける「活動大黒天」も奉斎されている。

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