《2019 》鷲神社の酉の市

酉の日は12日置きに巡ってくる。鷲神社は「おとりさま」として親しまれ、毎年11月(霜月)の神祭の日の酉の日を例祭日と定め、その日は70~80万人の人出で賑わう。

おとりさまは主に関東の祭りであるが、中でも鷲神社の「おとりさま」が最も名高い。

祭神は天日鷲命日本武尊である。天照大神が天の岩戸にお隠れになったとき、世界は闇に包まれた。困り果てた神々は天宇受賣命の舞踊りとお囃子で何とか天照大神を岩戸から引き出したのだが、その時弦を奏でた神様の弦の先に鷲が止まり、八百万の神々は世を明るくする鳥だと喜び、弦を使った神を天日鷲命と呼ぶことにした。

また、日本武尊は東方の夷敵征伐の折、戦勝祈願に立ち寄られ、見事志を遂げられた後、社殿の前に武器の熊手をかけて戦勝祝いの礼をされた。その日が酉の日であったことからこの日を鷲神社の例祭日と定めた。

始めは酉の祭(酉のまち)と呼ばれたが、祭りに市が立って、いつの間にか酉の市として親しまれるようになった。

十一月の酉の日午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に祭りが執り行われる。今年(2019)年は11月8日と11月20日の二の酉までになる。

 

一の酉の日、天候が良かったので上野から鷲神社まで歩いたみた。30分程かかったろうか。熊手150、屋台800に及ぶ店々は境内に入りきれず国際通り沿いの三ノ輪駅の方まで列なり、裏手は吉原神社の路地まで溢れかえる。

重ねて江戸の頃は酉の市の日、新吉原(旧吉原は今の日本橋にあったが明歴の大火で焼失し、当時江戸の外れにあった千束町に移転した。尚、この大火で江戸の3/4が焼け出され、江戸城天守閣も焼失、以後天守閣は再建されなかった)は一般にも解放され、大変な賑わいを見せたようだ。

 

<もうすぐ国際通り>

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<境内入口>
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<飾られた熊手の数々と提灯>
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<熊手は値切って買い、店と交渉が成立すると手拍子をし、値切る前の値段で買う。

差額は祝儀として店に渡す仕きたりらしい、この日もあちこちで手拍子が聞こえた>
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<サンリオの熊手>
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<暮時の鷲神社、帰る頃は最も混雑が激しかった>

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<新吉原近くの売店>
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縁起物には無用の私は、吉原神社附近にあった柿売場の出見世で「岐阜の柿は美味しい」と皆並んで買っていたのに釣られて柿を買った。帰宅後食したのだが格別美味しいという程でもなかった。

 

 <吉原神社>

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<吉原大門跡>

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<見返り柳> 吉原の帰り、この場に来るとその楽しかった一時の名残を惜しみ吉原の方を振り返ったそうな。

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<花吉原名残碑>

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春を待つことのはじめや酉の市   其角

人並に押されてくるや酉の市       虚子

 

 

 

SARS-CoV-2 宿主への侵入経路と形状等

2019年12月(10月説もある)湖北省武漢で拡がった新型コロナウィルス遺伝子の全塩基配列を解析すると、SARS-CoVとの相同性が約80%、コウモリSARS様コロナウィルスとの相同性が85~88%であることが認められた。

このことから今回の新型コロナウィルスはコウモリ由来のウィルスと考えられ、国際ウィルス分類委員会によりSARS-CoV-2と命名された。そのウィルスが惹き起こす疾患であることから、国際獣疫事務局国連食糧農業機関との合意に基づき、WHOはCOVID-19(corona-virus-disease-2019)なる名称を付けた。

当初中国当局武漢ウィルスと呼んでいたのでこの呼び名の方が分かりやすいと思うが武漢ウィルスと呼ぶことは今では差別になるらしい。従ってWHOはCOVID-19なる、かの国に忖度したかのような気の利いた名称を付けた。

今やこのウィルスは世界200国近くにまで拡散し、感染者1千4百万人以上、死亡者60万人を超え、更に拡大中だ。アフリカ等未感染地域にも拡がると、恐らく感染者は2千万人或いはそれ以上となり、第一次世界大戦中に起ったスペイン風邪以来のパンデミックとなる可能性もある。

WHOが此れに対して行ったことは、COVID-19という名称を付けたこと、パンデミック宣言を操作したこと、原因究明及び感染源を隠蔽したことだった。7月中国はWHOの調査を受けることを承諾した。既に発生から7カ月以上経過している。何か出てくるはずもない。発表されたとしても中国の意のままの結果になるだろう。

 

重症率20%、軽症、無症状率80%の絶妙な配合比率は致死率5%近くという、相応の恐怖感を与えつつ  人知を超え近年の進化した医療体制を嘲笑うかの如く粛然として拡大して行く。

しかも中国のあるデータによれば獲得中和免疫の80%が2~3カ月で消失するという。

これが事実なら感染は何回でも起こり得るということだ。

AIを駆使したジョンズ・ホプキンス大学のデータによれば7月18日時点での世界の感染者数は上記のように1400万人を超え、世界人口77億人の約0.2%弱が感染していることになる。

死者数は60万人を超え、感染者に対する致死率は4.3%になる。これはRT-PCRを行った結果のデータであろうから実際の感染者、死亡者数は共にこの数値を超えているものと思われる。

東京の人口は1400万人、7月18日時点での感染者数は8933人(0.064%)、感染者数に対する死亡者は326人(3.6%)。

これを仮にジョンズホプキンス大学の感染率に当て嵌めてみると感染者は人口の0.2%弱であるから28.000人、感染者に対する致死率は4.3%であるから1.204人となる。現時点では東京はJH大学の数値の1/3の感染者数となっているがこれを超えるのは時間の問題だろう。

 

人口約1000万人のスウェーデンは、ある程度のソーシャルディスタンスは取りながら医療崩壊を防ぐため、ほぼ何もしないという対策を執った。マスクも付けず、店舗の閉鎖もない。

ロックダウンは感染を先伸ばしするだけに過ぎず、感染防御としての証拠はないとして行わなかった。これは獲得免疫対策を取っているわけではなく、あくまでも医療崩壊を防ぐことに重きを置く対策だった。スウェーデンの人口密度はかなり低く、一人暮らしも多いので感染拡大のリスクは元々条件的に少ないと云える。この結果、7月時点でおよその感染者73,000人(感染率0.73%)、死亡者5400人(感染者に対する致死率7.4%)まで達した後にようやく新規感染者がゼロになった。

ロックダウンしたイタリア、スペイン、フランス、イギリス等が軒並み致死率十数%を超えていることを考えればスウェーデン方式の有効性は十分検討に値するかも知れない。

 

東京も緊急事態宣言終了後はスウェーデンと同様の暮らし振りだが、人口密度はスウェーデンより圧倒的に高い。若者は軽症もしくは無症状が多いといわれているが致死率の世界標準(東京は少ないが日本全体では4.3%)を保ちながら、緊急事態宣言終了後、感染者の拡大が続いている。これらを考慮すれば一定の期間が経れば日本もスウェーデンと同等或いはそれ以上の感染者、死亡者が出る可能性もある。あくまでも東京をスウェーデンに比べた数値であるが感染者0.73%で東京102.200人(スウェーデンは約0.73%で73.000人)、感染者のうち7.4%が死亡するとすれば東京7.563人(スウェーデンは約7.4%で5400人)となる。

 

アメリカでは人口の1% の300万人以上が感染し、死者は13万人、致死率は4.3%。

これを日本に当て嵌めれば感染者は126万人死者は5万4千人。東京では感染者14万人、死者6千人となる。

東京の感染者率0.064%は今のところ低いが、感染者は今後増えて行くと思われる。問題はやはり医療崩壊が起こるかどうかに係っているが、感染者が増えれば、重症者も増えて来るだろう。それに対して医療従事者も含め医療資源はそう簡単には増えない。また医療従事者の感染が増えれば医療崩壊が起る。迫り来る危機を乗り越えられるか。危機は今そこにあると考えておくべきかも知れない。

 

コロナウィルスの種類

ヒトに感染するコロナウィルスは現時点で

通常の風邪症候群を惹き起こす4種類と

一定程度の致死率を齎らす3種類がある。

その3種類の一つがSARS-COV1、発生当時は勿論COV-1は付いていない。 

Severe(重症)Acute (急性)Respiratory( 呼吸器) Syndrome(症候群)は中国広東省に起源を発し2002年11月の症例に始まり(中国は公表せず)、32の地域と国にわたり8000人を超える症例が報告され、約770人が死亡した。この致死率約9%以上の重症非定型性肺炎は台湾の症例を最後に2003年7月WHOにより終息宣言がなされた。

(台湾は今回このSARS-CoV-2においてCoV-1の経験を踏まえ、政府の迅速な対応により人口2000万、比較的人口密度も高い中で感染者451人、死者7人、現在感染者0という世界が驚嘆すべき成果を示した)

 

二つ目がMiddle East(中東)Respiratory(呼吸器)Syndrome(症候群)所謂MERS-CoVで、ヒトコブラクダ保有宿主(ラクダはヒトとコウモリの中間宿主とも云われている)と考えられ2012年9月にサウジアラビアで最初の報告があり、感染者は欧州、中東、アフリカ、韓国、中国等世界27カ国に及び2019年現在、2500例の症例と850人の死亡者が報告されている。致死率約35%の重症非定型性肺炎を起こすこのウイルスの終息宣言は未だなされていない。

 

三つ目が今回のSARS-CoV-2である。CoV-2の気温、湿度等環境要因及び人種間の遺伝的要因は未だ不明のままである。

 

ウィルスはヒトが持つ特定の受容体に取り付いて感染する。SARS-CoV1、CoV2の受容体ACE2(angiotensin-converting- enzaime 2)はレニン・アンジオテンシン系において発現する酵素であり、肺・心臓・腎臓など全身に存在する。アンジオテンシンⅠからアンジオテンシンⅡに変換し血管を収縮させるACEとは類似の構造体であるがACE2はアンジオテンシンⅡを分解する酵素でACEにやや拮抗する活性を有するようだ。しかしながらSARS-CoV2の感染により酵素活性が低下し、重篤化した場合サイトカインストームを惹き起こす可能性が考えられるという。

 

因みにMERS-CoVの受容体は DPP(depedidyl-peptidase)-4である。これは腸上皮細胞から分泌されるセリンプロテアーゼでインクレチンを分解し、血糖を上昇させる酵素として知られているが、細胞膜中や血液中にも存在する。

 

ウィルスが吸着する受容体(酵素)を宿主が持っているのは多分に宿命的なものだろう。これ等の酵素はヒトに対するそれ自身の活性を妨げるものではないが、ウィルスはこれ等の受容体を利用して、細胞内に侵入する。ウィルス(鍵)と鍵穴(受容体)は避けることの出来ない不可分の関係にあると云える。

 

(コロナウィルスの形状と感染)

球形の多形成ウィルスであり、大きさは平均すれば約100nm(1nmは1μmの千分の1で1μmは1mmの千分の1であるから100nmは1mmの1万分の1にあたる)、細菌であるブドウ球菌の大きさが凡そ1μmであり1mmの千分の1であるからコロナウィルスはブドウ球菌の約十分の1の大きさになる。ゲノムサイズは30kb(kilo baces)、3万塩基でRNAウィルスのなかでは比較的大きい。

 

ウィルスは遺伝子5%、その遺伝子を守るように覆うコート蛋白質及び他数種の蛋白質95%からなるカプシドで成り立っている。更にそのカプシドを包み込むエンベロープ(脂質膜)の有るものと無いものがある。自らは増殖せず、何処に潜んで居るかは分からないがこの形状を保っていれば、宿主の受容体に取付き感染を起こす可能性がある。

SARS-CoV-2はエンベロープ(脂質膜)を持ち、ここから棘のようなS(スパイク)蛋白が突き出ている。この形状がギリシャ語のコロネー、ラテン語のコロナ(王冠)の様で、太陽のコロナに似ていることからコロナウィルスと名付けられた。

遺伝子は無分節の1本鎖+鎖RNAで、エンベロープにはスパイク蛋白(S)、膜蛋白質(M)、エンベロープ蛋白質(E)があり、ゲノム上にはヌクレオカプシド蛋白(N)がある。

 

<宿主のへの侵入と出芽>

  • ウィルスのスパイク蛋白(S)が宿主のACE2受容体に取り付く
  • 宿主細胞膜上にあるセリンプロテアーゼTMPRSS2によりS蛋白の形状が変形し、

         侵入したウイルスのエンベロープと宿主 小胞体との融合がおこる 

  • 融合、脱殻によりゲノムが宿主細胞質中に放出される
  • ゲノムを複製する酵素RNA依存性RNAポリメラーゼ(RdRp)が宿主のリボソームを利用し合成される
  • RdRpはウィルスに必要な蛋白質合成のためゲノムRNAの相補鎖である-鎖RNAを合成する
  • この-鎖RNAを鋳型として複数の+鎖RNAを作りウィルスに必要な各種蛋白質(S).(M).(E)を合成する
  • mRNAがリボソームと結合し、カプシド蛋白質(N)が作られる。(N)はゲノムRNA

      に組込まれ宿主の小胞体に運ばれる         

  • 小胞体では(N)を包み込むように小胞体膜が切取られカプシド、エンベロープが組

         立てられウイルスが次々に複製される

  • 増殖したウィルスは小胞体からゴルジ体を経由して細胞外に出芽する

         宿主細胞は破壊される

 

治療薬について

<レムデシビル>  

現在COVID-19の治療薬として日本で承認されたものはアメリカギリアドサイエンシズ社のレムデシビル(ベクルリー点滴静注液)のみであるが、これは元々エボラ出血熱、マールブルグ出血熱の治療薬として開発されつつあったものだ。いずれも原因ウィルスはー鎖ではあるが1本鎖RNAウィルスであり、RNAウィルス共通の酵素RdRpを持つ。エボラウィルスやマールブルグウィルスに対する効果は未確定のようだがRdRpを阻害することから、理論上COVID-19にも効果があるとされアメリカで緊急使用の認可が下りた。正式承認が下りたわけではないが、これに基づき日本でも緊急承認された。

人工呼吸器若しくはECMOが必要とされる重症患者のみに使用される。

 

<ファビピラビル>

アビガンは富山化学か開発した古い薬であり、涙ぐましい努力によってここまで生き延びてきた。開発当初の研究者チームは10人足らず。開発コードは忘れもしないT-705であった。しかし当時抗インフルエンザ薬としてオセルタミビル(タミフル)やザナミビル(リレンザ)等のノイラミダーゼ阻害薬が発売されており新規医薬品の参入は困難な状況にあり開発は一旦中止された。

2005年アジアで猛威を振るった鳥インフルエンザH5N1にT-705が効果があることが確認されたが患者数も少なく、研究継続は再び行き詰まった。2008年富士フィルム富山化学を買収した頃、作用機序のRdRp阻害がアメリカで注目された。バイオテロ対策用にである。

日本においても2014年他薬で効果が認められないインフルエンザに限り使用することで承認を得た。剤型は錠剤で作用機序はレムデシビル同様伸長中のウィルスRNAが間違ってアビガンを取り込むことでRdRpの活性を抑えることによる。エボラ出血熱にも使われある程度の効果を得たとの報告がある。動物実験での催奇形性が問題となっているようだが、これは始めから分かっていることだから相当する患者は避ければよい。また動物実験精子の減少が認められたがヒトでは確認されていない。副作用として尿酸値の上昇が認められる以外重大な副作用は確認されていない。あくまでも現時点でのことであるが。

 

<ナファモスタット>

フサンとして1986年以来、急性膵炎やDIC治療薬として古くから使用されている蛋白合成阻害薬で点滴静注で使用される。

東京大学医科学研究所でSARS-CoV2のウィルススパイク蛋白とTMPRSS2とが融合する

初期段階においてTMPRSS2の活性を濃度依存的に阻害することが確認された。

 

<トシリズマブ>遺伝子組換え

アクテムラはヒト化抗IL-6レセプターモノクローナル抗体で抗リウマチ治療薬として使用されている。皮下注と点滴静注がある。

COVID-19においてウィルスの増殖が拡大すると、本来は炎症を抑制する生理活性蛋白であるインターロイキン-6等のサイトカインが過剰に産生され、サイトカインの暴走によるサイトカインストームが誘発される。これにより多臓器不全を起こし死にいたる。アクテムラは過剰産生されたインターロイキンを抑える作用がある。

 

その他既存薬の有効使用、新薬の開発が世界中で行われている。

 

<ワクチンの開発>

ワクチンはこれまでウィルスを不活化、弱毒化したものが使用されているが、今回初めてウィルスを用いない、従って副反応も少ないと云われている遺伝子ワクチンの開発が実用化されつつある。DNA或いはRNAワクチンであり、ウィルスのスパイク蛋白をターゲットにした抗体産生を目的としている。

DNAの1000倍変異があるとされるRNAワクチンの開発はかなりの困難が予想されるが、成功すれば画期的なものとなるだろう。

 

感染者数、致死率等は2020年7/18日現在のものであり数値は刻々と変化、増大している。喧々囂々議論は続くが結論は出ない。

1mmの1万分の1の極微のものの振舞いにさてどう対処出来るか。

 

 

 

 

 

 

奏楽堂日曜特別コンサート~モーツァルトとフォーレのピアノ四重奏曲~


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奏楽堂は旧東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)の校舎として1890年(明治23年)に建設された。老朽化に伴い都外への移設構想も検討されたが、音楽界、建築界の反対により移設構想は頓挫。1983年(昭和58年)台東区が藝大より譲り受けて1987年(昭和62年)現在の上野公園内に移築、復元した。2014年(平成25年)より耐震補強を始め建物全体の保全修理を行い2018年(平成30年)にリニューアルオープンした。その後は一般のコンサートは勿論、藝大生や上野学園学生による定期的な演奏会が行われている。尚、藝大音楽学部内にも奏楽堂があり、此方でも演奏会は行われている。

 

今回、私が視聴したのは藝大大学院生による日曜特別コンサートであった。日時は2019年  9/29日曜日。曲目はモーツァルトのピアノ四重奏曲第一番ト短調KV478とフォーレのピアノ四重奏曲第一番ハ短調OP15の2曲。

前売りは無く、500円で当日券を購入し座席は先着順で好きな場所を取れる。
いずれも充実した内容の曲であるので、著名アーティストによる演奏ではないものの混雑が予想された。なので念のため奏楽堂に確認したところ2時開演、1時半開場後チケット販売なので1時半に到着すれば充分間に合うとのことだった。が少し不安だったので開場40分前の12時50分には着くようにした。

案に違わず聴視客は玄関前から4列の行列を成して門扉の外まで及んでいた。

玄関から門扉まではそう長い距離ではなかったものの、既にこれ程の行列が出来ているのかと思い些か驚いた。

幸い3列目の席を取ることが出来き、ひとまず安心したが開演直前には満席になっていた。

1曲目はモーツァルトの宿命的なト短調(G-moll)で1785年、彼が29歳の時作曲された。

ピアノ協奏曲20・21・22番、ハイドンセット等傑作が次々と生れた時期で、フィガロの結婚が作曲された前年にあたる。
モーツァルトの曲の主題は殆ど長調であり、短調は全作品の5~6%程しかない。

 

交響曲について云えば、曲番号が付いている41番までの交響曲のうち短調は第25と第40番の2曲だけで、いずれもト短調である。曲番号の付いていない交響曲も十数曲あるが短調は偽作と云われているK16aイ短調1曲のみであり、この全くモーツァルトらしくないオーデンセを加えても全3曲しかない。

オーデンセを入れると3÷57×100=5.26%

偽作と云われるオーデンセを省くと25番と40番しかないので2÷57×100=3.5%  こんな計算はどうでもいいのだがmoll系の少なさが実感出来る。

 

ト短調に関して云えば前述の交響曲2曲以外で主だったものは数曲の小品を除けば今回のピアノ四重奏曲第1番と痺れるような名曲弦楽五重奏曲第4番(KV516)の4曲のみだ。

G-mollの宿命性とはおそらく、日本においては小林秀雄のエッセイ「モーツァルト」から来ているものと思われるが、この評論が雑誌創元に発表されたのは1946年(昭和21年)であり、終戦後の混乱期で物資も乏しく、レコードや資料も乏しかった時代のことであるが、ゲーテやアンリ・ゲオン、モーツァルトの手紙等を通しながらモーツァルトの音楽を的確に捉えていると思われる格調高い評論である。日本ではモーツァルトを論ずる時、この評論を避けては通れない筈だ。その他モーツァルト論は多数執筆されており、素人の私が読んだ本だけでも、吉田秀和モーツァルト」「モーツァルトの手紙」、田辺秀樹「モーツァルト」、海老沢敏「モーツァルトを聴く」、池内紀モーツァルト考」等数冊あるが小林秀雄の評論が最も印象深い。

 

冗談を言ったり、時には下品な言葉を使い、会う人と陽気に接する天真爛漫なモーツァルトの明るい表情の中に一瞬垣間見せる死の淵を見据えているような悲しみを湛えた眼差し。その垣間見せる一瞬の深淵が短調の響きとなって奏でられる。弦楽五重奏曲ト短調、ロンドイ短調、幻想曲ニ短調、そしてレクイエムニ短調等。この人の他に誰か聴く者の内腑を抉るような曲が創れようか。

「僕はいつもベッドにつく度に、まだ若いと言ってもひょっとすると自分はもう明日は居なくなっているかもしれない」

といつも考えていたモーツァルト

 

前置きが長くなってしまったがピアノ四重奏曲第1番ト短調KV478は、

友人でもある楽譜出版者ホフマイスターの依頼によるものであった。しかし楽譜を受け取ったホフマイスターは「この曲は難し過ぎ一般受けしないから書き直して欲しい」とモーツァルトに再考を促した。

結果としてモーツァルトは曲を書き直すことはせず、ホフマイスターとの契約の方を打ち切った。おそらくモーツァルトはそれ以前には確立されていなかった(ハイドンにもない)ピアノ四重奏曲という新たな分野を作りたかったのではないかと云われている。

ピアノ四重奏曲は今回演奏されるkV478と第2番変ホ長調KV493の2曲しか残されていないが個人的には今回演奏されるKV478の方が断然好きだ。

 

第1楽章アレグロ 

唐突とも思える三弦の響きに呼応して、軽快でやや哀調を帯びたピアノの調べが続く。味わい深いフレーズの繰り返しが聴くものを感動させる。

第2楽章アンダンテ

長調に転じてゆったりとしたピアノの調べと三弦の緩徐楽章で、まるで麗かな春の陽だまりの中での優雅な戯れであるかのようだ。

第3楽章ロンド

軽やかで流れるようなリズムでピアノはほゞ間段なく続き、弦も対等に呼応する。途中展開部で第1楽章の愁いを帯びた調べを感じさせながらも最後は長調の明るさに戻る。

 

コンサートの2曲目はフォーレのピアノ四重奏曲第1番ハ短調OP15で、1876~1879年フォーレ31~34歳の時の作品だが、最終章に懸念があるとの指摘を気にしてその改訂を行ったため決定稿の完成は全7年の歳月をかけた1883年のことであった。翌年フォーレ自身のピアノ演奏により初演された。

フォーレは「パブァーヌ、シチリアーナ、夢のあとに」等甘美なメロディーの作曲家として有名だが、ピアノ四重奏曲をモーツァルト同様2つ作曲している。

私の好みはどちらかと云えば四重奏曲ではなく官能的な響きをもつピアノ五重奏曲の第1番だがこのピアノ四重奏曲第1番も重厚な名曲と云えるらしい。

第1楽章アレグロ

やや重いが伸びやかな曲調で、ピアノの和音に伴う弦の力強いオクターブ・ユニゾンが曲の主題を印象付ける。

第2楽章スケルツオ 

ピアノの軽く走るような響きに弦のピッツィカートが交錯するリズミックな楽章。

第3楽章アダージョ

メランコリックなピアノで始まり、チェロの重く暗い雰囲気が重なる。深い愁いを湛えた抒情的で胸迫る楽章。

第4楽章アレグロ

ピアノの流れるような和音に乗って、弦が打ち寄せる波のようにリズミカルな音色を奏でる。フィナーレを飾るに相応しい華麗な楽章とも云えようか。

 

私はフォーレには殆ど関心がないが、些か退屈気味な長いこの曲の全楽章を倦むことなく傾聴させた藝大大学院生による演奏は素晴らしいと思った。

他の視聴者も同様の感想を抱いたのであろう。

ブラボーの声と万雷の拍手が奏楽堂に鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホテルニューオータニの紅葉とイルミネーションと絶品ランチ

ニユーオータニ創業者大谷重工業社長大谷米太郎が、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催に間に合うようホテルを建設したいという政府の要請に応じたのは、オリンピック開催の1年半前のことであった。

地上17階、客室1000以上のホテル建設には通常3年以上は掛かるといわれていたが、大谷は短期間での建設を承諾、建築を請け負ったのは大成建設だった。

建築は昼夜を分かたず行われ、工事をしながら同時進行で図面を作成するという突貫工事であった。その他工期の短縮を図るための高性能カーテンウォール工法(当時はアルミニウムに鉄骨を嵌め込む方法)や後に多くのホテル建設で採用されることになるユニットバス工法、柔構造設計等様々な画期的な工法が導入された。

その忙しさの最中、創業者大谷は宿泊客全てに富士山を見せたいのでメイン最上階に回転式展望レストランを造れという更なる難題を持ち込んだ。

この難題に対して大成建設戦艦大和の45口径主砲台の回転技術を取り入れることを思い立った。それは直径45 mという東洋一の展望台の下に大和の主砲台を廻していたと同様のコロ(小さい車輪)を120個設置し、大展望台を回転させるというものだった。

出来上がった展望レストランは70分に1度回転し、その動きはコップを満たした水の僅かな揺れをも認めなかったという。ホテルは、1964年(昭和39年)の東京オリンピック直前に開業し、期間中、外国人を始め6万人の宿泊客を受け入れた。メイン最上階の回転レストランはブルースカイラウンジと呼ばれ、大変な人気となり長い間東京のランドマークでもあった。

現在はVIEW&DINING THE SKYという趣きの無い呼名となって営業が続けられている。

 

庭園の歴史は古く400年前に遡る。加藤清正下屋敷であったものが井伊家の中屋敷となり、維新後は旧伏見宮跡地であった約2万坪の敷地を終戦大谷米太郎が買上げ庭園として整備した。

現在の広さは外堀に囲まれた約1万坪で、高さ6mの大滝、数寄屋造りの建物、池泉回遊式、枯山水、四季折々の花々が咲き誇る等見処満載の庭園となっている。

 

<鳳凰の間前のライトアップ>

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<山茶花なだ万本店>

創業者大谷米太郎氏の自邸を数寄屋風に改築した瀟洒な家屋。1986年(昭和61年)の東京サミットにおいては公式晩餐会が行われた。

190年の歴史を持つなだ万は現在アサヒビールの傘下にある。

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<清泉池と紅葉>

訪れたのは12月も半ばを過ぎていたので紅葉はやや色褪せていた。

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<メイン館と大滝>

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<太鼓橋とメイン館>

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<ステーキハウス石心亭辺り>

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<紅葉とガーデンラウンジ>

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<太鼓橋と紅葉>

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<紀尾井町通りに面したツリー>

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<本館正面のツリー>
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<ランチ>

トゥールダルジャンは次回にするとして今回はリーズナブルなガーデンラウンジの

ランチビュッフェにした。

と云っても1人 5000円するのだが...


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<取り放題デザートの数々>
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味は頗る良く午餐の一時を満喫できる。

 

 

 

紀尾井坂の変 ~大久保一蔵の死と江藤新平の亡霊 ~

虎の門駅を降り、三年坂を登りきると内閣府等が入る中央合同庁舎8号館がある。内務卿及び参議だった大久保利通の本邸は嘗てこの辺りにあった。

1878年(明治11年)5月14日の事件当日の朝、大久保は2頭立の馬車で御者1人、従者1人と供に明治天皇への謁見のため旧紀伊和歌山藩内に在った赤坂仮皇居に出向くことになっていた。

青山通り赤坂見附外堀通りー紀ノ國坂のほゞ直線コースの近道を辿らず、茱萸坂から青山通りに抜け、籔に覆われた細径(現在の紀尾井ガーデンテラス弁慶濠側の坂道)を下り紀尾井町通りに出て、喰違見附から外堀を渡る迂回路を取ろうとしたのは一説によれば… 

-事実らしいのだが-

大久保は明治七年己の政敵でもあった初代司法卿江藤新平が起こした佐賀の乱の鎮圧にあたり自ら現地に赴いて指揮を執った。常に政府の中枢にいた大久保だったが戦闘の指揮を執るなどは嘗て無かったことである。如何に江藤に対する敵意が凄まじかったかが窺い知れる。江藤は明治六年の政変で佐賀に戻り、大久保の謀略に嵌り乱を起こし政府軍に制圧され、捕縛された。大久保が江藤の刑を急ぎ佐賀で執行したのは恐らく政府への助命嘆願等が提出され刑の執行に差し障りが出るのを危惧したのものと思われる。

江藤に一切の抗辯の機会も与えず、佐賀嘉瀬刑場で斬首刑に処し、無法にも千人塚で晒し首とした。

…紀ノ國坂でその彼(江藤新平)の亡霊を見て恐れ慄いたからだという。

 

 

長崎で手拡く貿易商を営んでいた江藤新平の弟江藤源作が所用あり上京した時の事だった。

大久保が仮皇居へ赴く際、源作の宿泊先の近くである紀ノ國坂を通ることを聞き及んだ彼は理不尽に兄を処刑した大久保一蔵という男を一目見て長崎へ帰りたいと思った。

翌朝その通り路に一人佇み大久保が来るのを待った。馬車で仮皇居に向かう大久保を凝視していたところ、大久保はその鋭い視線を感じたのか、ふと源作の方を振り向いた。

視線が一致した瞬間大久保の顔面は蒼白となり、その身をわなわなと打顫わせたという。

大久保のその尋常ならざる驚き振りが瞼に焼付いて離れず、長崎に帰った源作は彼の娘に幾度となくその話をした。

源作の顔は三歳年上だった兄新平にそっくりだったと云う。

堅忍不抜の意思を持った、然しもの大久保にも法を無視し、私刑の様にして葬った江藤に対する罪の意識は拭い切れなかったものと思われる。

以後大久保はこの道筋を避け、敢えて遠廻りをして仮皇居に向かった。沈着冷厳な大久保にも意外に脆い一面があったのだと感じさせる面白いエピソードである。

 

 清水谷を過ぎて突き当たりを左に折れ喰違見附までが紀尾井坂(現在のニューオータニ正面、紀尾井ホール方面)で、喰違見附から赤坂仮皇居までは目と鼻の先だった。

事件は紀尾井坂の変と呼ばれるが、大久保一行が石川県士族島田一良を始めとした不平士族六人に襲撃されたのは紀尾井坂へ至る手前の麹町清水谷であった。当時の清水谷公園辺りは鬱蒼とした森であり、紀尾井通りはその森の中の路であったから襲撃者には恰好の場所と云えよう。

まず路で待伏せしていた二人が馬車に襲い掛かり馬、御者を切った。と同時に隠れていた四人が次々に飛び出して大久保を馬車から引き摺り出し滅多切りにした。襲撃者は事切れた大久保に一礼し、その場を立ち去った。

知らせを聞き直ちに現場へ駆けつけ遺体を見た、近代郵便制度の父前島密は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するをみる」と惨憺たる状況を述べている。

不平士族六人は「公議を杜絶し、民権を抑圧し、もって政事を私する」「法令漫施、請托公行恣に威福を張る」等五項目の罪状を挙げた斬奸状を手に自首し、その年の七月全員斬首の刑に処せられた。

 

大久保は明治国家建設三十年構想を抱いていた。明治元年から十年までを創業期とし、不平士族反乱等の内乱の制圧に当たる第一期、明治十一年から二十年迄は内政を整え殖産を興す最も重要な第二期とし、此処までは「我一人を以て国家を維持せん」という覚悟で自身が全力を尽くす、以後の十年第三期は後継者に託すというものだった。紀尾井坂の変は明治十年九月城山で西郷を自刃させ、行く手を阻むものが無くなった大久保が心置きなく国家建設に邁進できると想っていた矢先の第二期に入って五ヶ月後の出来事であった。

享年49、盛大な葬儀が行われ、青山墓地に埋葬された。

 

 

#紀尾井坂の変 #大久保利通

#江藤新平の亡霊 #罪の意識

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

清水谷公園の紅葉 ~都会のオアシス~

紀尾井町通り、ホテルニューオータニ前にある千代田区の小さな公園。

江戸時代紀州徳川家上屋敷彦根井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であり、

紀州徳川家の敷地から霊水が湧き出ていたことから清水谷と名付けられた。

ビルの谷間にある緑豊かな公園で、桜、楓、藤等四季の花々も楽しめ、小さな池もあり

(心字池)、都会のオアシス的な空間となっている。また園内の茶室偕香苑は区民に

開放されており茶道教室が開かれ、茶会も催される。

右側の坂道を登ると東京ガーデンテラス紀尾井へ通じる。公園中央にはこの地で暗殺された内務卿兼参議大久保利通の高さ6mを超える哀悼碑が建っている。

 

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聖路加タワーのレストラン 360度の大展望とフレンチフルコース

11月のある火曜日。ヨシピーとカヨちゃんは

聖路加ガーデンタワーのスカイラウンジレストラン「ルーク」でフレンチフルコースを楽しんでいた。ドトールルノアールなどの喫茶店でコーヒーを飲みながら長時間話したりしたことはあったがディナーといった少し格式ばったものは二人には初めての事だったので、どうせならちょっと洒落たお店に行こうやといってこのレストランを予約したのが2カ月前だった。その2カ月目が今日遂にやって来た。

47階にある天空レストランは360度の展望が楽しめる。

レストランのドアを開ければ東京タワー側、スカイツリー側のどちらの展望も窓なしで

楽しむことができる。テラス席もあるが11月なのでうすら寒くさすがに誰も居ない。

しかし何かの記念日なのだろう花束贈呈を行っていたカップルが2組程ありレストランスタッフに写真を撮ってもらっていた。

ヨシピーとカヨちゃんも屋上展望台に出てみたが221mと高い処にあるからか、以外と風が強く身体が震える程だったので二人は5分もしないうちにレストラン内に戻った。

 

レストラン内から見る外の景色
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レストラン内部

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先ずはシャンパンで乾杯

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オードブルやら、魚料理、肉料理と事細かに説明されるが、説明されるそばから次々と

忘れてゆくアニバーサリーフレンチフルコース    店内は仄暗く写真写りは良くない

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 夜景

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デザートセット
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ハイネケンビール
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最後はハイネケンビールで締めたがフルコースはさすがにきつい。カヨちゃんは美味しかったと言っていたが、ヨシピーはステーキの量が多すぎて胃もたれした。満腹になった二人は隅田川を見て、聖ルカ通りを歩き、カヨちゃんが好きな喫煙コーナーのある喫茶店ベローチェに入り、たわいもないことを喋りながらそこに閉店まで居た。蛇足だがカヨちゃんは喫茶店を”きっちゃてん”と言う。これを聞いた当初、ヨシピーは学生時代の下宿先の大家のおばちゃん(ちゃきちゃきの江戸っ子)が同じように“きっちゃてん”と言っていたことを思い出し笑ってしまった。わざと言っているのではないらしい。

カヨちゃんのしゃべりは品の良い顔立ちからは想像できないべらんめえ口調である。

性格はサバサバしていてどちらかといえば男っぽいのかも知れない。

“築地は私の庭だし、銀座だって同じようなものよ、いつでも案内するわ”

“じゃー銀座頼むよ、特に裏側だな”

 

さっきの”きっちゃてん”も笑えるがカヨちゃんはまだ若いのにガラケーを使っている。

全くもってガラパゴスなんだが美人だからそんなことは許そうとヨシピーは思っている。

「今時珍しな、ライン出来ないと不便だよ、インターネットはやらないのか」

とヨシピーが聞いたら

「家にはタブレットがあるから大丈夫よ、壊れてるけどね」

「壊れてるんかい、何もならんな」

「でも私もその内スマホデビューするから」と言っていた。

 

カヨちゃんのマンションはここから近い。ベローチェを出た時は風が強くなってきた。寒い寒いと手を擦り合いながら「銀座線で上野方面へ行くなら信号渡った乗車入口から乗ったほうがいいよ」と言って付いてきてくれた。ヨシピーは何故かキュンとしてしまった。

カヨちゃんはいつか山の上の天麩羅を食べるのが夢だと言っていたが、なんだそんなことかと思った。だからヨシピーは別れ際に、じやーこの次は御茶ノ水の山へ行こうやと言って別れた。どことなく切ない想いを残して。