紀尾井坂の変 ~大久保一蔵の死と江藤新平の亡霊 ~

虎の門駅を降り、三年坂を登りきると内閣府等が入る中央合同庁舎8号館がある。内務卿及び参議だった大久保利通の本邸は嘗てこの辺りにあった。

1878年(明治11年)5月14日の事件当日の朝、大久保は2頭立の馬車で御者1人、従者1人と供に明治天皇への謁見のため旧紀伊和歌山藩内に在った赤坂仮皇居に出向くことになっていた。

青山通り赤坂見附外堀通りー紀ノ國坂のほゞ直線コースの近道を辿らず、茱萸坂から青山通りに抜け、籔に覆われた細径(現在の紀尾井ガーデンテラス弁慶濠側の坂道)を下り紀尾井町通りに出て、喰違見附から外堀を渡る迂回路を取ろうとしたのは一説によれば… 

-事実らしいのだが-

大久保は明治七年己の政敵でもあった初代司法卿江藤新平が起こした佐賀の乱の鎮圧にあたり自ら現地に赴いて指揮を執った。常に政府の中枢にいた大久保だったが戦闘の指揮を執るなどは嘗て無かったことである。如何に江藤に対する敵意が凄まじかったかが窺い知れる。江藤は明治六年の政変で佐賀に戻り、大久保の謀略に嵌り乱を起こし政府軍に制圧され、捕縛された。大久保が江藤の刑を急ぎ佐賀で執行したのは恐らく政府への助命嘆願等が提出され刑の執行に差し障りが出るのを危惧したのものと思われる。

江藤に一切の抗辯の機会も与えず、佐賀嘉瀬刑場で斬首刑に処し、無法にも千人塚で晒し首とした。

…紀ノ國坂でその彼(江藤新平)の亡霊を見て恐れ慄いたからだという。

 

 

長崎で手拡く貿易商を営んでいた江藤新平の弟江藤源作が所用あり上京した時の事だった。

大久保が仮皇居へ赴く際、源作の宿泊先の近くである紀ノ國坂を通ることを聞き及んだ彼は理不尽に兄を処刑した大久保一蔵という男を一目見て長崎へ帰りたいと思った。

翌朝その通り路に一人佇み大久保が来るのを待った。馬車で仮皇居に向かう大久保を凝視していたところ、大久保はその鋭い視線を感じたのか、ふと源作の方を振り向いた。

視線が一致した瞬間大久保の顔面は蒼白となり、その身をわなわなと打顫わせたという。

大久保のその尋常ならざる驚き振りが瞼に焼付いて離れず、長崎に帰った源作は彼の娘に幾度となくその話をした。

源作の顔は三歳年上だった兄新平にそっくりだったと云う。

堅忍不抜の意思を持った、然しもの大久保にも法を無視し、私刑の様にして葬った江藤に対する罪の意識は拭い切れなかったものと思われる。

以後大久保はこの道筋を避け、敢えて遠廻りをして仮皇居に向かった。沈着冷厳な大久保にも意外に脆い一面があったのだと感じさせる面白いエピソードである。

 

 清水谷を過ぎて突き当たりを左に折れ喰違見附までが紀尾井坂(現在のニューオータニ正面、紀尾井ホール方面)で、喰違見附から赤坂仮皇居までは目と鼻の先だった。

事件は紀尾井坂の変と呼ばれるが、大久保一行が石川県士族島田一良を始めとした不平士族六人に襲撃されたのは紀尾井坂へ至る手前の麹町清水谷であった。当時の清水谷公園辺りは鬱蒼とした森であり、紀尾井通りはその森の中の路であったから襲撃者には恰好の場所と云えよう。

まず路で待伏せしていた二人が馬車に襲い掛かり馬、御者を切った。と同時に隠れていた四人が次々に飛び出して大久保を馬車から引き摺り出し滅多切りにした。襲撃者は事切れた大久保に一礼し、その場を立ち去った。

知らせを聞き直ちに現場へ駆けつけ遺体を見た、近代郵便制度の父前島密は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するをみる」と惨憺たる状況を述べている。

不平士族六人は「公議を杜絶し、民権を抑圧し、もって政事を私する」「法令漫施、請托公行恣に威福を張る」等五項目の罪状を挙げた斬奸状を手に自首し、その年の七月全員斬首の刑に処せられた。

 

大久保は明治国家建設三十年構想を抱いていた。明治元年から十年までを創業期とし、不平士族反乱等の内乱の制圧に当たる第一期、明治十一年から二十年迄は内政を整え殖産を興す最も重要な第二期とし、此処までは「我一人を以て国家を維持せん」という覚悟で自身が全力を尽くす、以後の十年第三期は後継者に託すというものだった。紀尾井坂の変は明治十年九月城山で西郷を自刃させ、行く手を阻むものが無くなった大久保が心置きなく国家建設に邁進できると想っていた矢先の第二期に入って五ヶ月後の出来事であった。

享年49、盛大な葬儀が行われ、青山墓地に埋葬された。

 

 

#紀尾井坂の変 #大久保利通

#江藤新平の亡霊 #罪の意識