感動!幸田露伴『五重塔』,と谷中さくら通り

1週間前には少しも咲いてなかったさくら通りも今日3月24日は満開になっていた。

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以下は幸田露伴の小説五重塔の舞台となった天王寺五重塔跡地の写真。
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露伴は2年間この近くの台東区谷中7丁目(当時は下谷区谷中天王寺町)に住んでおり、毎日のように塔を眺め、小説の構想を得たようだ。

露伴が住んで居た場所は現在は一般の民家となっているが、当時から有った珊瑚樹は保存されており、樹の前に案内板が立てられている。

此処から墓地沿いに銀杏横丁を通り、左に曲ると銀杏通りとなり、さくら通りに突当る。その目前に塔が建っていた。

 

天王寺本堂は日暮里駅南口を出てもみじ坂を登り切った処にある。創建時は感應寺と呼ばれていたが幕命により日蓮宗から天台宗に改宗し、寺名も天王寺と改称した。五重塔跡地は桜並木のほゞ中央に位置する。

最初の五重塔寛永21年(1644)に創建されたが明和9年(1772)の目黒行人坂の大火(行人坂は目黒駅から雅叙園にいたる坂)により焼失した。この火事は根岸や千住にまで及び江戸中に甚大な被害を齎した。明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つである。

露伴の小説五重塔は初代の塔焼失後19年を経た寛政3年(1791)近江国高島郡の棟梁八田清兵衛等48人によって建立された2代目五重塔を題材として書かれた作品である。

 

   あらすじ

「木目美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵もなく唯一人、少しは淋しそうに坐り居る三十前後の女」~

という書き出しで始まる流麗な文章は最後まで衰えることなく、物語の緊迫性と相俟って感動をより増幅させる。主人公は技倆は確かなものの、ぶっきら棒で、人付き合いも悪く、世渡り下手で、仕事と云えば長屋の羽目板の繕いやら、馬小屋の箱溝の数仕事位でこれといった仕事は何一つ成したことのない職人であり、同業者からはのっそり十兵衛という諢名さえ負わされ蔑みを受けていた。

こののっそりが五重塔建立の話を聞くや俄に自分がどうしてもこの塔を建てて見たいと、まるで物怪にでも取り憑かれたような執念を見せるのである。

埋もれたしがない職人風情に大事な仕事を任せることは檀家方や寄進者方の手前もあり、のっそりに出来ようはずもないと同業者も含め寺の人々も皆々そう思うに違いない。増して感応寺庫裏殿を見事に造った川越の源太棟梁が五重塔を建てるものと誰しも疑わず、寺からも所望され見積りさえ出している処であった。然なきだにこの源太棟梁から仕事を宛がわれているのっそりが今更のこのこと五重塔を建てたいと名乗り出るなど論外の事であった。

しかるにのっそり、源太親分への義理も人情もかなぐり捨て、本来なら目通り叶わぬ寺の上人様の元へ直々に塔を建てたいと懇願すべく会いに行くのである。寺の用人は、汚なきのっそりに何用あって寺に参ったかと聞き糺すも、のっそりは上人様でなければ話せぬと我を突っ張り、寺用人皆々外へ出ろと言うものっそり頑として動かず、用人、役僧共々にこの狂漢を力ずくで門外に押し戻そうと悶着しているところに上人通り掛り、何事かと問い質す。上人の声聞くに及び寺用人皆々無体な行いに恥じ入り体裁悪げに鳴りを潜める。その様なことならば直ぐ取次げば済むことではないかと上人寺用人に申す。

上人はのっそりの汚なき姿など構うことなく、気の毒のことをしましたなと自ら話を聞くべく部屋に案内するのであった。

いざ上人と膝交え直々に話すとなるとのっそり感涙に咽ぶと共に元来話下手の処に緊張の余り物言いも覚束なきところであったが、流石に蛍雪の苦学を積まれ、涅槃の真を会して執着の彩色に心を動かすことも無き朗円上人、にこやかな笑みを湛えてのっそりに曰く、さぞかし何か深う思い詰めて来たことであろう、私をば怖いものと思わず朋友同様に思ふて遠慮を忘れて緩りと話をするがよいと申される。のっそり益々感極まりながらも、ようやくこれ迄の経緯、我が思いのたけを朴訥として話しける。

 

五重塔建立の話が出てからと云ふもの私が建てるなど思いもよらぬ事とはいへ、日毎其の思い益々募りし処、或る夜恐ろし気な人に夢現の中で吟附けられました。「五重塔を汝作れ今直ぐ作れ」と。其夜からというものは、白木造りの五重塔がぬっと突っ立って私を見下ろしてをります。到底及ばぬとは知りながら毎日仕事を終ると直ぐに夜を籠めて五十分の一の雛型を造り、昨夜で丁度仕上げました。御上人様どうぞその雛型を見て下され。

 

此を聞いた上人、のっそりの殊勝な心掛と真心こめた言い分に甚だ感服し、のっそりの頭を下げるを制し、今日は閑暇もあれば、汝が作りし五十分の一の雛型を直ぐさま見に行こうと申される。然るにのっそり此には流石に恐縮し、今すぐ此方に持って参りますればと慌てふためき長屋に帰り作り上げた雛型を上人の基に届け置きて帰る。

上人此を見て初重より五重に至るまでの配合、屋根庇廂の勾配、その他細部に至る迄の割賦、細工ぶりに、これがあの、のっそりと言われし不器用者の手になるものかと疑はるる程水際だった巧緻な雛型を見て、かほどの技倆を持ちながら名を発せず空しく世を経るものの憫然(あわれ)たるやと一人密かに嘆じたまふ。我図らずものっそりが胸に懐ける無価の宝珠の微光を認めし縁により、この度の仕事彼に命け少しの報酬をのっそりが誠実の心に得さんと思われけるが、川越の源太に本堂庫裏殿作らせし因みあり、彼とて腕に間違いなく、人望は明らかにのっそりに優る。更には今回の五重塔の設計予算まで既に出させ4、5日前に其を目にしたところでもあった。

一つの仕事を二人に委せること、流石に上人といへど迷いける。

或る日上人二人を呼び、仏説にある兄弟譲合いの例え話を問わず語りに話しながら、

老僧は構わん二人で良く相談して決めよと申された。

 

源太、上人の話を聞くに及び、己の手にて建てるべきであった塔を、そこは義に厚い親分気質、のっそりに半口与って二人で塔を建ててもよかろうと慮っていた。

然しながら本来ならのっそりより頭を低くして、何卒半分なりと仕事を割与えて下されと頼み来るところ、のっそり一向に現れる気配なく、さしもの源太此には痺れを切らし自らのっそりの家へと赴く。

「どうだのっそり不満はあろうが俺が主として、汝が副で二人で塔を建てようではないか」と言う。のっそり只々頭を垂れ、恩ある親方様を差し置いて私ごときが出過ぎたことを言いました。のっそりはのっそりのまま終わります。上人様の話を聞いてこの十兵衛きっぱりと諦めました。のっそりは親方の建てし五重塔を見ればしあわせでございます。此を聞き粋でいなせな源太親方、俺一人で建てたいところではあるが、そうであっては俺の男が廃る、増して上人の例え話しつらつら思い浮かべ、我一人で建てるとなっては上人様の覚えも悪くなること間違いないと思い、「よしでは百歩譲ってのっそり、お前が主になりわしが副になろう。これで我慢してくれるか」しかるにのっそり答えて曰く、「それは厭でございます。主であり副であれ一つの仕事を二人でやることは厭でございます。どうか親方一人でやって下さい」と。親方ここに来て、やいのっそりお前は余程物の道理が解らぬ奴だと怒気鋭く言い放ち、よしそれならわし一人で立派に建ててくれるはとのっそり宅を後にする。

源太帰った後、よくよく考えるに、上人様の教え諭されしこと、得々思い詰めれば詰めるほど思案の限りを超えたり、ここは上人様の判断を仰ぎのっそりがやるも我が源太が建てるも上人様のお言葉に従うのみと、寺に赴き、先ののっそりとのやり取りを上人に話す。上人様がのっそりに委すとおうせなら、私は綺麗さっぱり諦めまする。此れを聞いた上人「さすがは源太、今そなたの言を聞けばもはや汝が五重塔を建てたるに同然じゃ」と申される。

「実は先刻のっそり来たりて、親方に会わせる顔もないと涙ながらに塔の建立を辞退する旨言ふてきたところだ。のっそりを可愛がつてやれ、可愛がつてやれ」との言葉にさすがに源太その言葉に合点し、ここに至り綺麗さっぱり自分は諦め、のっそりに委せてやろうと心に決める。

 

数日後のっそり宅に寺からの使いで急ぎ参れと口上あり、何事かと思い寺に出向くと、上人始め役僧円道、用人頭為右衛門揃いて、この度の生雲塔工事一切のこと言い渡す。本来ならこの度の建立、川越の源太に任せし処、格別のご慈悲を以ってのっそり十兵衛に確と任せることに相成った。辞退の儀は罷りならん。のっそりはっと俯伏せ身体打震え我が命さし出しますると深々と頭を垂れる。

 

紺青色に暮れ行く空に漸く輝り出す星を背中に擦って飛ぶ雁の、鳴き渡る音も趣味ある不忍池蓬莱屋裏二階に侠気に溢れる親方気質の源太、ここでのっそりとの因縁さらりと水に流し、仲直りすべく一席を設けた。更に少しでも手助けになればと、材木の委細、角木の割合算法、墨縄の引きよう、規尺の取りよう等の技術は元より、人足の手配、工夫重ねて描いた下絵図までものっそりに自由に使うがよいと風呂敷包みを解き、二束にした書類取出しのっそりが前に差し出した。

しかるに元来人の巾着で仕事するを良しとしないのっそり、「親方様誠に有難う御座いますがご親切は頂戴いたも同然、此れはそちらで御納めを」と膠もなしな言いぶり。

源太言ふ「此品をば汝は要らぬというかと」親切を仇にする様な言葉に慍を底に匿して問ふに、のっそり「別段拝借いたしましても」と悪気なしとは言へ迂闊な一句で答えてしまう。これには源太堪忍袋の緒が切れて「如何ほど自己が手腕の良くて他の好情を無にするか、開けて見もせず覗きもせず、知れ切ったことと云わぬばかりに汝十兵衛よくも撥ねたの。それならば十兵衛様一人で立派にお建てなさいませ。地震、風で壊るるようなことはあるまいな」と深く嘲る言葉に、のっそり返して「のっそりでも恥辱(はじ)は知っております」と底力味ある楔を打つ。

 

のっそりには世間一般の義理人情等無稽のしきたりなど考慮の外なのである。只々100年に渡るも残れし五重塔を我が技倆で造りたいとの一心しかなく、でなければ馬鹿ののっそりのまま終る方を望んだのだ。

 

この蓬莱屋での話を聞いた源太の弟分清吉は怒り心頭に発し、塔建立の普請音喧しい中、棟梁として何かと指図するのっそりめがけて手斧片手に「畜生、のっそり、くたばれ」と大喝しまっしぐらに突進する。のっそり驚きて振り向きざま、清吉驀向より、手斧打ち下ろし、のっそりが左耳を殺ぎ、傷は肩先迄到達する。

清吉は仕損じたかとばかり、尚ものっそり目掛けて踏込むが、地盤固めを引き受けたる、め組の頭、人呼んで火の玉鋭次親方にこの馬鹿野郎と取り押さえられる。

 

傷を負うて帰りたるのっそりだったが、翌朝いつもの通り疾く起きて、別段悩める容態もなく、普段の如く振舞えば、女房あきれ返って治癒るまでは慎むが第一とお医者様にも謂われているのに仕事に出かけるなど以ての外と問い質す。

高の知れた蚯蚓膨れなどで一日たりとも休めるものか。お前は知らぬが、表面は棟梁棟梁と言われるが、常日頃から馬鹿といわれし、我が指揮(さしず)に頭は下げながら、鼻で笑われ、口では謝りながら顔色では怒られ、陰では勝手に怠惰けるやら譏るやら散々茶にしていて、腹の中では泣きたいような事ばかりだ。その中で此日まで運びしところ、今日休んでは大事の躓き、何処が悪い、彼処が悪いと皆に怠けられるは必定。この時自分が休んで居れば何一つ言いようもなく、万が一にも仕事が仕損じてはお上人様、源太親方に顔が向けられるか。生きても塔が出来なければ、のっそり死んだも同然。二寸三寸の手斧傷で寝ていられるか。とのっそり女房に話しぬ。

 

あの傷ではもはや数日は出て来られまいと思ひ合ひたる職人共、早くからちらりほらりと仕事に取り掛かっているところ、まさかと思ひしのっそり現れ「皆精出してくるる嬉しいぞ」の一言を受け、一同吃驚き、この時より後、皆々励み勤め、昨日に変わる身のこなし。一を聞いては三迄働き、二といわれしには四まで動けば、のっそり片腕の用を欠いて却って多くの腕得る如し。のっそりが肩の傷治る頃には総檜造り、高さ十一丈二尺八寸(約34m)の五重塔天晴れ見事に完成し、金剛力士が巌上に突き立つ如く、巍然として聳え立つ。

僧徒、用人等初めはのっそりを軽しめたることなど忘れ去り欣喜雀躍す。

 

然るに落成式の日も定まりつつあった直前、暗雲垂れ込み、風増々強く、各々の家屋根剥がれ、瓦飛び、柳は倒れ竹は割れ、雨また沛然として降りしきり、数十年に一度あるかなきかの暴風雨来たりて、江戸八百八町の人々慌てふためき生きた心地なし。

基礎少なく、高さばかり高く、廻に遮るものもない出来たばかりの生雲塔も猛烈な風に波を打ち、豪雨のなかで倒れるを待つのみかと皆々不安に恐れ慄き、寺用人居ても立っても居られず掃除人七蔵に疾く十兵衛を呼んで来よと叱咤す。七蔵雨霰吹き荒ぶなか十兵衛宅に来たりけるが、憐れのっそりが家、屋根飛び、藁莚で雨凌ぐ姿。さすれども構わず七蔵早う塔を見に来よと言ふが、大丈夫です、此の位の嵐で塔は倒れませぬとのっそり。

わしが云うのではなく用人、役僧様の御言い付けじゃと七蔵尚云うも、のっそり、私は用人役僧様に言われて塔を建てたのではありませぬ。上人様なら如何なる雨風であろうと十兵衛呼べとは仰っしゃりますまい。上人様が来いというのであればいきましょうが、行く必要はありません。嵐が来ようと地震があろうと塔は倒れませぬ。と用人様に言ふて下されと愛想なく言い放つ。

七蔵仕方なく戻りしが、「馬鹿者め、上人様がお呼びだと謀る位気が付かぬのか」と言われ、七蔵再び防風吹き荒れる中のっそりが家に赴き用人に言われし通り上人様がお呼びだと謀りぬ。

のっそり此を聞き、それは真実でござりますかと落胆甚だしく、世界に我を慈悲の眼で見て下さるる唯一の神仏と思ふていた上人様が我が一心掛けて建てたものを真底からは信じておられなかったのか!ああ何と情けなし、もはや十兵衛の生き甲斐なし、一度はどうせ捨つる身、身の捨処よし、我が建てし塔壊れるならば、我もまた生雲塔の頂上(てっぺん)より直ちに飛んで身を捨てむ覚悟と嵐の中をさ迷い出でむ。いつの間にか辿り着きたる塔の五層まで上りあげ戸を押し開けて半身あらわせば、猛風暴雨のため呼吸(いき)さえ出来ずに思わず一足退くも奮い立って屈せず立出で、欄を摑んで屹っと脾めば、ただ囂々たる風のみ宇宙に充ちて物騒がしく、塔あわや傾覆らむ風情、のっそり覚悟して天命を待つばかり。

 

さて嵐過ぎ去りれば、何処の火の見が壊れた、彼処の二階が吹き飛ばされた、江戸で一、ニの大寺脆くも倒れ、浅草や芝の塔も損じあった中、感応寺生雲塔釘一本緩まず、板一枚剥がれることなく、蒼穹を仰ぎ粛然として屹立する。

 

小説は「宝塔長へに天に聳えて、西より膽れば飛檐ある時素月を吐き、東より望めば勾欄夕に紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、譚は活きて遺りける」と珠玉の名文で完結する。

 

事実八田清兵衛が棟梁となって建立したこの五重塔上野戦争関東大震災、大戦の災禍も逃れ1957年(昭和32)の心中放火事件により焼失するまでの166年間谷中地区の象徴的建造物であった。

 

我が微々たる読書歴のなかでも、芥川の「奉教人の死」や鴎外の「山椒太夫(安寿と厨子王)」など目頭を熱くする小説は読んでいたが、露伴の「五重塔」はこれ等に優るとも劣らぬ万感胸迫る感動的な作品であった。

 

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