芥川龍之介の短編~奉教人の死について

この短編は芥川26歳のとき(1918年大正7)雑誌三田文学に発表された。同年発表された地獄変と共に芥川文学至高の作品と云える。

2つの作品に共通するのは、紅蓮の焔に包まれながら何れも若く美しい女人が絶命すると云う圧巻のラストシーンである。

 

奉教人の死」は長崎を舞台にした一人のキリシタン孤児の殉教を描いた短編であり、私はこれを読む度に覚えず目頭が熱くなる。

芥川はキリスト教に関する作品を幾つか発表しているが中でもこの一人のキリスト教信者(奉教人)の瞬間の死、延いてはその一生を、美しく鮮やかに描いた「奉教人の死」は群を抜いた傑作と云える。

 

(原文は青空文庫で読める)

 

あらすじ

 

①  或るクリスマスの晩、長崎の「サンタルチア」というカトリック教会の門前に餓えて痩せ細った頑是ぜない少年が倒れていた。

発見した信者達が介抱し教会に搬んだ。

神父様は搬び込まれた「ロオレンゾ」と云う名の少年を主の恵と憐れみとにより教会で引き取ることにした。

懇ろに不持して置かれるうちに、その少年の信心深いことは長老の宣教師達も感心する程であり、「ロオレンゾ」は神童なりと頻りに話をしておった。

その出生を問えば故郷は「天国」、父は「デウス」と答えいつも事も無げな笑いに紛らいて、宣教師達に誠の事を申すことは無かった。しかしながらその信仰の篤さは日頃の行いや手首に掛けた念珠の色合い(ロザリオのようなものか?)からも疑うべくもなかったし、信心の堅固さは天童の生まれ変わりであろうなどと長老衆も舌を巻くばかりであった。

玉のように清らかであり、声様も女のようにやさしかったから一しお哀れを惹いたのでごさろう。

 

②  宣教師の中に「シメオン」という者が居った。彼は元武士であり、槍一筋の家柄であった。身の丈も抜群な上に生得の強力無双のものであったことから、神父様が異教徒ばらから受ける石瓦を投げつけられる等の受難を幾度となく救った剛の者であった。その「シメオン」が如何あろうか「ロオレンゾ」を弟のように可愛がっていた。

 

③  何事もなく3年程の歳月が過ぎ去り、「ロオレンゾ」が元服を向かえる頃、彼に関する怪しがな噂が立つようになった。町内に傘張を生業とする家の娘がおり、翁(父親)共々熱心な信者であり「サンタルチア」への礼拝も欠かすことがなかった程信心深い親子であった。

噂はその娘が「ロオレンゾ」と徒ならぬ関係になっているというものであった。

娘は「ロオレンゾ」に思いを寄せ、「教会」へ来ると目で「ロオレンゾ」を追い回し艶書なども交わしているという。

神父様も此れは捨ておけぬと「ロオレンゾ」にその真偽の程を直接問い質した。

「ロオレンゾ」はそれに対して一向に存じよう筈もごさりませんと涙声に繰り返すばかり故、さすがの神父さまも我を折られて、年配といい、日頃の信心深さから、こうまで申すことに偽りはあるまいと思うたげにごさる。

 

④ 併しながら町の噂は中々消えることがなく、兄貴分の「シメオン」も気をもんでいた処であった。始はかような淫らなことを、ものものしう詮議だてするのも躊躇うばかりであったが裏庭でその艷書を発見してしまった。「シメオン」は嚇(おど)しつ賺(すか)しつしながら「ロオレンゾ」に問い質したところ、艷書は貰ったことはあるが、その娘とは一度たりとも口を利いたこともないと「ロオレンゾ」は答え、わびしげな眼でじっと相手を見つめ「私は御主にさえ、嘘をつきそうな人間に見えるそうな」と咎めるように言い放って部屋を出て行ってしまった。

 

⑤ そうこうするうちに傘張りの娘が孕(みごも)ったと云う騒ぎになった。翁(父親)が誰の子じゃと聞くとこの子の父親は「ロオレンゾ」様だと娘は言った。

翁は火のように憤って「サンタルチア」に走り込み神父様に委細を訴えに参った。

こと此処に及んでは神父様も最早捨て置けぬと思い宣教師や信者達と相談した結果、御主の栄光に関わることゆえ、最も重い罰である破門を涙を呑んで「ロオレンゾ」に言い渡す結果となった。

「ロオレンゾ」は已む無く「サンタルチア」を去らざるを得なくなった。

「ロオレンゾ」が「サンタルチア」の門を出ると、兄弟のように親しくしておった「シメオン」は弟に欺かれた気持ちからか、いたいけな少年が、折からの凩(こがらし)が吹く中に戸口を出かかった時、その美しい顔を強(したた)かに殴った。「ロオレンゾ」はそこに倒れ伏したが、やがて起きあがり涙ぐんだ眼で、空を仰ぎながら「御主も許させ給え「シメオン」は、己が仕業もわきまえぬものでござる」とわななく声で祈ったと申す。顔を曇らせながら、悄々(すごすご)と「サンタルチア」の門を出る「ロオレンゾ」のもとに居合わせた奉教人衆の話を伝え聞けば、時しも凩(こがらし)にゆらぐ日輪が、項垂れて歩む「ロオレンゾ」の頭(かしら)のかなた、長崎の西の空に沈もうず景色であったに由って、あの少年のやさしい姿は、とんと一天の火焔の中に、たちきわまったようすに見えたと申す。

 

⑥  破門された「ロオレンゾ」は住むあてとてなく、非人が住むようなあばら家を塒(ねぐら)とし、日々の食事にも事欠き、更に浮浪者として石瓦を当てられたりする有り様であった。

併しながら信心の心は此までと何ら変わることなく、夜、人気も無くなる頃には町はずれの小屋を抜け出し、サンタルチアの門前に来たりて主への祈りを捧げるのであった。

このことは誰も知ることは無かった。

 

⑦ やがて傘張りの娘は無事女の子を出産した。「シメオン」も「翁」も「ロオレンゾ」のことを恨めしくは思っても産まれた女の子に対してはことのほか可愛がった。

そうして一年(ひととせ)が過ぎていった頃、長崎を揺るがす大火事が発生した。

まことにその折の景色の凄まじさは末期の御裁判(おんさばき)の喇叭の音が一天の光をつんざいて、鳴り渡ったかと思われるばかり、世にも身の毛のよだつもので御座った。

運悪く傘張りの娘の家は風下にあったため、風に乗った火焔はみるみるその家に迫り来て娘は翁共々一散に逃げ出した。火焔を逃れてふと気付くと、産まれた幼子が居ないではないか。果ては家に取り残したか、娘と翁はおろおろして狼狽(うろた)えるばかりであった。

その時勇猛果敢な「シメオン」が現れ、火焔の中に飛び込んだが、いっかな火の勢いが強く、ほうほうの呈で逃げ出す始末であった。娘は取り乱し、泣き叫び見も世も捨てぬ有り様だった。

この時誰とは知らず忽然として高らかに

「御主、助け給え」と業火の中に飛び込む者があった。「シメオン」が頭(こうべ)をめぐらして、その声の主をきっと見つめれば、いかなこと、それは破門された後何処に行ったか、顔すら見せなかった、その姿は紛れもなく「ロオレンゾ」ではないか。

 

目もはなたずほんの一瞬燃えさかる家を眺めていた「ロオレンゾ」は果敢にもまっしぐらに、火の柱、火の壁、火の梁の中に飛び込んで行ったではないか。信者始め皆々「ロオレンゾ」の健気な振舞いに驚くとともに、「さすが親子の情愛は争われぬものと見えた。己が身の罪を恥じて、このあたりには影も見せなんだ「ロオレンゾ」が、今こそ一人子の命を救おうとして、火の中にはいったぞよ」と誰ともなく罵りかわしたのでござる。

 

⑧  なれど傘張りの娘だけは狂おしく大地に跪いて両手で顔をうずめながら、一心不乱に祈誓をこらえて身動きする気色もなく、見も世も忘れ祈り三昧であった。とこうするうちに髪をふり乱した「ロオレンゾ」が諸手に幼子をかい抱いて乱れとぶ焔の中から天下るように姿を現した。と同時に燃え尽きた梁の一つが半ばから折れたのでござろう、凄まじい音と共に、一煙焔が半空に迸ったと思う間もなく、「ロオレンゾ」の姿ははたと見えなくなって、跡にはただ火の柱が、珊瑚の如くそばだったばかりでござる。居合わせた奉教人は皆眼の眩む思いでござった。娘はけたたましう泣き叫んで、脛もあらわに躍りたったが、やがて雷に打たれた人のように大地にひれ伏した。

 

⑨  ああ広大無辺なる「デウス」の御知慧、御力は何とたたえ奉る詞にござない。燃え崩れる梁に打たれながら「ロオレンゾ」が必死の力を振り絞って、こなたへ投げた幼子は、折よくひれ伏した娘の足もとへ、怪我もなくまろび落ちたのでござる。「シメオン」はさかまく火の嵐の中へ「ロオレンゾ」を救おうず一念から、真一文字に躍り込んだ。奉教人衆は皆一同に声を揃えて「御主、助け給え」と泣く泣く祈りを捧げた。なべての人の苦しみと悲しみとを己がものの如くにみそなわす、われらが御主「ゼス・キリシト」は遂にこの祈りを聞き入れ給うた。焼けただれた「ロオレンゾ」は「シメオン」が腕(かいな)に抱かれて火と煙の中から救い出されてまいった。

 

⑩ 「ロオレンゾ」か風上にあった「エゲレシア」の門に横たえられたときの事であった。

それまで幼子を胸に抱き締めて、涙にくれていた傘張りの娘は、折から門に出ておられた神父様の足元に跪くと、並み居る人の目前で「この女子は「ロオレンゾ」様の種ではおじゃらぬ。誠は妾(わらわ)が家隣の異教徒と密通してもうけた娘でおじゃる」と思いもよらぬ懺悔を仕(つかま)つった。その思い詰めた声様の震えともうし、その泣き濡れた双の眼のかがやきと申し、この懺悔に露ばかりの偽りさえあろうとは思われぬ。

肩を並べた奉教人衆は、天を焦がす猛火も忘れて、息さえつかぬように声を呑んだ。

娘が申し次いだには、「妾は日頃「ロオレンゾ」様を恋い慕うて居ったなれど、御信心の堅固さからあまりにつれなくもてなされる故、つい怨む心も出て、腹の子を「ロオレンゾ」様の種と申し偽り、妾につらかった口惜しさを思い知らそうと致したので御座います。なれど「ロオレンゾ」様の御心の気高さは、妾の大罪をも憎ませ給わいで、今宵は御身の危なさをも打ち忘れ、地獄にもまがう火焔の中から、妾娘の一命を辱(かたじけなく)も救わせ給うた。その御憐み、御計らい、まことに御主「ゼス・キリシト」の再来かともおもわれ申す。この妾の重々の極悪を思えば、五体は忽ち悪魔の爪にかかって寸々に裂かれようとも中々怨むところはおじゃるまい。娘は大地に身を投げて泣き伏した。二重三重に群がった奉教人衆の間から、殉教じゃ、殉教じゃと云う声が、波のように起こったのは、丁度この時の事でござる。

殊勝にも「ロオレンゾ」は、罪人を憐れむ心から、御主「ゼス・キリシト」の御行跡を踏んで、浮浪者にまで身を落とした。

して父と仰ぐ神父様も、兄と頼む「シメオン」も、皆その心を知らなんだ。これが殉教でなくて何で御座ろう。

 

⑪  したが当の「ロオレンゾ」は娘の懺悔に僅かに頷いたばかりで、髪は焼け肌は焦げて、手足も動かぬ上に、口を利こう気色さえも今は全く尽きたげでござる。息は、刻々に短うなって最後は最早遠くはあるまじ。日頃と変わらぬのは、遙かに天上を仰いで居る、星のような瞳の色ばかりじゃ。

娘の懺悔に耳をすまされた神父様は吹き荒ぶ夜風に白髭をなびかせながら、「サンタルチア」の門を後ろにして、厳かに申されたには、これより益々「デウス」の御戒めを身にしめて、心静かに末期の御裁きの日を待ったがよい。また「ロオレンゾ」が我が身の行儀を、御主「ゼス・キリシト」とひとしく奉ろうず志は、この国の奉教人衆にあっても類い稀なる徳行でござる。別して少年の身とは云いながら٠ ٠ ٠ ٠ ٠ ٠

とそこまで申された神父様は、ああこれはまた何とした事でござろうぞ。神父様は俄にはたと口を噤んで、あたかも天国の光を望んだように、じっと足もとの「ロオレンゾ」の姿を見守られた。その恭しげな容子はどうじゃ。その両の手のふるえざまも尋常(よのつね)の事ではござるまい。おお神父様のからびた頬の上には、止めどなく涙か溢れ流れるぞよ。

見られい「シメオン」見られい「傘張りの翁」。御主「ゼス・キリシトの御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「サンタルチア」の門に横たわった、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣(ころも)のひまから、清らかな二つの乳房が、玉のように露れているではないか。今は焼けただれた面輪にも、自ずからなやさしさは隠れようすべもあるまじい。

 

⑫ 「ロオレンゾ」は女(おなご)じゃ、「翁」よ「シメオン」よ「ロオレンゾ」は傘張りの娘同様この国の女(おなご)じゃ。見られい。邪淫の戒めを破ったに由って「サンタルチア」逐われた「ロオレンゾ」は眼差しのあでやかなこの国の女(おなご)じゃ。「神父様の主への祈りと共に周囲を取り囲んでいたものは只々蹲り、殉教じゃ、殉教じゃこれを殉教と云わずなにあろう。まことにその刹那の尊い恐しさは、あたかも「デウス」の御声が、星の光も見えぬ遠い空から、伝わって来るようであったと申す。

されば「サンタルチア」の前に居並んだ奉教人衆は、風に吹かれる穂麦のように、誰からともなく頭を垂れて、悉く「ロオレンゾ」のまわりに跪(ひざまず)いた。その中には誰やらの啜りなく声も聞こえはしたが、ただ、空をどよもして燃え仕切る、万丈の焔の響きばかりでござる。神父様の御経を誦せられる厳かな哀しい声が「ロオレンゾ」の上に高く手をかざしながら止んだ時、「ロオレンゾ」と呼ばれた、この国のうら若き女は、まだ暗い夜のあなたに「天国」の「栄光」を仰ぎ見て、安らかな微笑みを唇に止めたまま、静かに息が絶えたのでござる。

 

⑬ その女の一生は、このほかに何一つ、知られなんだげに聞き及んだ。なれどそれが、何事でござろうぞ。なべて人の世の尊さは、何ものにも替え難い刹那の感動に極まるものじゃ。暗夜の海にも譬(たと)えようず、煩悩心の空に一波をあげて、未だ出ぬ月の光を、水沫(みなわ)の中に捕えてこそ、生きて甲斐ある命とも申そうず。されば「ロオレンゾ」が最後を知るものは、「ロオレンゾ」の一生を知るものではござるまいか。

 

 

芥川は本文の最後に原典はイグナチウス٠ロヨラが設立した集団、長崎耶蘇会出版の一書「レゲンダ٠オウレア」によるものと述べているが、此は全くの芥川の虚構であって、小説発表後、その原文を見せて呉れないかとか、果てまた斯く斯くの値段で譲って呉れないか等問合せが多く大変困惑したようである。

出処は後に「聖マリナ伝」や「聖人伝」から題材を取ったものと云われるようになった。芥川自身はキリスト教ではなかったが特にカトリックのものから多くの題材を選び好んで小説のモチーフにしている。

 

 

文庫本にして僅16頁に満たない短編であるが、私は真の小説とはこのような作品であるものと考える。

 

一般に読まれている杜子春、トロッコ羅生門、蜜柑、藪の中、歯車、河童、首が落ちた話、疑惑などはやはり傑作と云えるものだろう。

奉教人の死地獄変、或日の大石内蔵助の三作品は文章の構成、鮮やかな言葉の迸り、描写の完璧性から、まさに芥川文学の白眉と云える。

 

 

私が此れ迄読んだ中で最も優れた小説と思えたのは、

幸田露伴の「五重塔」、

芥川龍之介の 「地獄変」「奉教人の死」「ある日の大石内蔵助

中島敦の 「悟浄出世」「名人伝」「山月記

三島由紀夫 「絹と明察」

谷崎潤一郎 「瘋癲老人日記」

等である。

 

外国作品で云えば

アルチュール・ランボー「地獄の季節・イルミナシオン」

アルベール・カミュ「異邦人」

フリードリヒ・ニーチェ「アンチ・クリスト」

アナトール・フランス「神々の渇き」

ジャン=ポール・サルトル「嘔吐」

ジョナサン・スウィフトガリバー旅行記

  (但し1のリリパット国は除く)

 

無論個人の好みに過ぎない。

 

 

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