彰義隊と上野戦争

彰義隊墓所の桜〉f:id:gaganbox:20210504234644j:image
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慶應4年(1868)大阪から逃げ戻った慶喜は上野寛永寺に謹慎した。彰義隊は新政府に恭順を示 している慶喜を守るべく、或いは徳川家を再興すべく一橋家や幕臣が中心となり、檄文を著し、同盟を結成したのが始まりで、数回の会合を経て、浅草本願寺に集結し、大義を彰かにしようという意味から彰義隊と名付け、本格的な活動を開始する。拠点はやがて上野寛永寺となる。

最盛期は3000人以上が集まり、大所帯となった彰義隊であったが、所詮は烏合の衆に過ぎなかったとも云える。新政府軍指揮官大村の討伐布告により、多くは戦線を離脱し、実際に戦ったのは1000人程であった。戦は激しいものであったが戦況が結着した夕刻迄に、大村が逃道として予め空けておいた根岸方面から奥羽、越後、蝦夷地に散らばって行った者も多く、上野での死者は約200~300人程であった。戦後荼毘に付されたまま放置されていた戦死者の亡骸は明治7年政府の許可を得て山王台近くの墓所に埋葬されることになった。現在墓所には「明治7年政府の許可を得て、墓を立てることになったとある」のが1枚、「政府を慮り墓碑銘は記されなかったが明治14年(1881)に元彰義隊小川興郷らによって墓が造立されたとある」台東区教育委員会のものが1枚の2つの立て看板がある。上の写真の墓は明治14年に建てられたものと思われる。

この遠慮がちに建てられた墓所にも毎年春が来れば桜は咲く。

その墓所前、10m有るか無きかの山王台に、明治31年政府は上野の山から東京を見おろしているかのような西郷像(高村光雲作)を建てた。

まるで彰義隊への嫌がらせであるかのように。

 

上野寛永寺は徳川家大墓所であって、家康が僧天海に命じ、秀忠の時代に創建が開始された。東叡山延暦寺として、西の比叡山に匹敵する規模にとすることとされ、現在の上野松坂屋附近の広小路から参道となり、黒門(寛永寺総門)を通って参拝し、根本中堂をくぐり抜け(現在の公園噴水あたり)、奥の院(現在の国立東京博物館)まで至る。面積は不忍池から藝大、かって国会図書館があった辺りまで全てが東叡山延暦寺であった。彰義隊は此処に立てこもり新政府軍に対峙した。江戸総督官は西郷であったが京都新政府は江藤新平の報告により、勝海舟に取り込まれた西郷の江戸治安維持の方針を覆し、彰義隊討伐を決断、指揮官として大村益次郎を江戸に送り込んだ。上野戦争戊辰戦争唯一江戸で行われた首都攻防戦であり、これに勝利することはその後の奥羽越後の戦争を左右し、延いては新政府の存在に関わる重大な局面となるところ、大村の巧みな戦略により江戸を火の海にすることなく、新政府軍は僅か半日で上野戦争を制した。

 

上野戦争最大の激戦地黒門跡地(広小路方面から見れば山王台の右下方にあった)

当時の黒門は南千住の円通寺に保存されている。大村益次郎の命により、西郷率いる薩摩軍がこの最激戦地を担当した>
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<清水観音堂。ここに於いても激しい戦いが繰り広げられたが焼失は免れた。堂内には当時使用された砲弾が展示されている(但し堂内は撮影禁止)>
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清水坂を登り、清水の舞台から月の松越しに不忍池辯天堂を臨む。>
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不忍池~上野公園~天王台>
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戦いの前半は彰義隊が有利に進めていたが、新政府軍指揮官大村の命により、まるで頃合を見計らったように加賀藩邸本郷台台地に装備してあった最新砲アームストロング2門が不忍池を通り越し、上野山王台目掛けて火を噴いた。

本郷台は現在の東京大学がある場所で、筆者は何度か本郷台から上野公園まで歩いたことがあるが当時の砲弾の飛距離としては相当なものであることを感じた。この最新砲と旧式砲を混じえた新政府軍の射列攻撃により寛永寺の壮大な建造物は悉く灰燼に帰した。彰義隊の戦意は消失し、新政府軍に捕らえられた者もあったが多くは散々になり逃亡した。

僅か半日の勝負とはいえ上野戦争の意義は大きく、江戸の空気は一気に新政府成立に傾いた。京都首脳が徳川に課した条件、徳川家の800万石から70万石への禄高削減、慶喜駿府蟄居、武器放棄に対して最早誰一人抗議するものはなかった。

こうして江戸は1000年の都である京都に対して、事実上の首都である、東のみやこ、東京になっていくのである。