西日暮里の女...

西日暮里駅は山手線29駅の中で49年の長きに渡り、最も新しい駅だった。綾瀬~代々木上原間の営団地下鉄千代田線開通時の1969年(昭和44年)、地下鉄千代田線の西日暮里駅が誕生したことを受け、その翌々年1971年(昭和46年)に当時国鉄であった山手線の新駅「西日暮里駅」が千代田線との乗換え駅として開業した。

既存の日暮里駅を乗換え駅とする案もあったが乗換えるまでの距離が長く、国鉄もこの西日暮里駅案で決着した。そのためかJR西日暮里駅から日暮里駅までの距離は山手線各駅間で最も短く500m程しかない。また反対側の田端からの距離は800mで、田端駅から来る電車はホームで見ているとかなりの上昇勾配で西日暮里駅に迫ってくる。

西日暮里駅以外の山手線各駅は既に明治、大正時代に開業されていた。この頃、日本鉄道は国有化されてはいたが、所謂国有鉄道国鉄」として出発するのは独立採算制の事業形態として認可される1949年(昭和24年)の事である。従って西日暮里駅は「国鉄」が開業させた山手線唯一、昭和時代唯一の駅である。その後1987年(昭和62年)国鉄は民営化されJR(Japan Railways)となった。



駅ホームから道灌山通りを見ると切通しになっており、右側の開成高校(余計な話だが開成高校は東大合格者数39年連続1位の名門進学校である。但し超難関の東大、京大、大阪大等の各医学部への合格者は他の学部合格者に較べれば比較的少ない。これ等の最難関医学部への合格者数は灘高が圧倒している)の正門脇の「ひぐらし坂」を登って行くと道灌山の台地となり、道幅は狭いが閑静な住宅街が建ち並ぶ。この坂を登りきり、学園のグラウンドを過ぎると日暮里の街並みやスカイツリーまで見渡せる高台となる。

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諏訪台方面へは道灌山台地から、歩道橋で西日暮里公園に直接繋がっている。西日暮里駅からは駅改札を左に出て、西日暮里公園に沿って登るか、右に出て諏訪坂ガードをくぐり抜け、屈折した地蔵坂を登ってゆく。彼岸の頃はその土手に曼殊沙華(別名、地獄花、死人花、幽霊花)の鮮やかな赤が忽然と現れる。

諏訪台は、おすわさまと呼ばれる日暮里谷中の鎮守の森「諏方神社」が鎮座し、静謐で厳かな佇まいを見せる。又隣接する諏方神社別当浄光寺の一面の雪景色は格別の趣があり雪見寺とも呼ばれていた。

道灌台・諏訪台から見下ろす光景は風光明媚な場所として知られ、茶店も並び、江戸の頃は多くの人々が集い、花見や虫聴といった行事や、或いは遠く筑波・日光連山まで見通せるその展望を楽しんだ。

また、少し歩を進めると今はビル群が建ち並び富士山の全景を見ることは出来ないが、嘗ては山の全貌を眺めることが出来た富士見坂がある。

「日暮里」の名の由来である1日遊んで暮らして居ても飽きない、日暮しの里と云われたのは今の日暮里地域ではなくこの西日暮里周辺のことである。

 

桃さくら鯛より酒のさかなには 

みところ多き ひくらしの里       ( 十返舎一九)

 

山手線で最も新しい駅、西日暮里 !

ところが時代の波には逆らえず、西日暮里駅にも悩み悶える時期が到来することとなった。半世紀近く保ってきたその座を明け渡す日が近づく。

2020年(令和2年3月)隈研吾設計の高輪ゲートウェイ駅が山手線最新の駅舎として開業することになったからだ。

西日暮里駅のぼやきが始まった。階段壁面の至るところにポスターが貼られる。

「48年の末っ子歴に終止符」

「このスタンプ押しておくなら今のうち」

「これからは普通の駅にもどります」

またどこかの議員の発言を捩ったというか、そのままのようだが

「二番目じゃダメなんでしょうか」等

自虐的とも取れる様々な嘆き節ポスターが階段壁面に貼られ話題にもなった。

この駅で乗換えする度、これらのポスターを見るのだが、この駅が山手線で最も新しい駅であることなど余り知られていないだろうし、今後2番目になろうとなるまいと大方どうでもいいことであろうが、無駄な抵抗を試みる職員の“駅への想い”は分かるような気がする。どうにもならないことだが49年間守ってきた地位を奪われるとなると、只黙って見過ごす訣にも行かないのだろう。駅を利用する身として、何となく妙な哀感を共にした紋太もポスターを見る度薄笑いしたものだ。

 

コンコースのエスカレーター
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山手線で一番新しい駅でも半世紀も経てば老朽化は避けられない
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前置きが長くなってしまったが物語は、この駅が山手線新駅一番目の座を奪われる前年のある6月の土曜日のことに始まる。

紋太はいつものようにマンションを出て勤務先へ向かった。雨こそ降っていなかったが、この時期らしい鬱淘しい梅雨(つゆ)空以外に何ら変わり映えの無い1日の始まりだった。

山手線を下り、千代田線乗換えのため西日暮里駅の長い下りエスカレーターに足を乗せた瞬間、ふと柔らかい気配を背後に感じた。それは続々と列を成して乗り込んでくる人々の気配とは明らかに異なっていた。紋太は振り向きたいその強い誘惑に抗い難く後ろを見た。

20代後半であろうか、その女は華やかな微笑みを浮かべ「おはようございます」と紋太に挨拶した。

花柄の薄いベージュのワンピースにウエストマークをあしらった姿はいかにも通勤する清楚な女性社員の装いだった。

女の余りにも馴れついた挨拶に"どこかで会ったのかな"と訝しげな感情を抱きつつ、あれこれ想いを巡らしてみたがやはり覚えはない。しかしその女は「何処かで会った?」という紋太の問い掛けに何故か頷いた。紋太は迷い焦った。常ならば通り過ぎて行く出会いでしかなかっただろうが今回は只通り過ぎるわけにもゆくまいと思った。

...彼女の余りに人懐かしい微笑み故に...

千代田線のホームで取敢えず話しをすることにした。女は千駄木に行くと言ったので紋太の勤務先とは反対方面の行き先である1番ホームで話をした。

女はLINEで連絡を取りたいと云うようなことを言った。そのたどたどしい日本語の口調からすると恐らく中国人であろうことが窺えた。

女の真意は分からないが、何某かの思惑があって接してきたのであろう。紋太は自分のスマホのLINEQRコードを女のスマホに写し撮って貰えば一瞬で済むことだから、それ位はしておいても差し支えは無かろうと思った。だが、いざとなるとそのQRコードが何度操作しても出てこない。

「何か俺相当焦ってるな」

「何で出ない、いつもやっているのに」

「ホーム画面から出てこない、何てことだ」

大げさに言えばこの時の紋太のぼやきは西日暮里駅員のそれより、はるかに切羽詰まっていた。

焦る程あちこち弄りまわして余計解からなくなる。QRQRコードだ。トヨタの部品会社デンソー囲碁から想像し、絵や文字の比率まで計算し発明したQuick Responseという素晴らしい技術だ。

バーコードは1次元コードで横に20文字程度しか認識しない。しかもこのバーコードを発想した者達の組織は3年毎に更新料を取っている。只更新させることだけで莫大な収益を得ている。

それに比べ2次元QRコードは7000文字以上認識し、特許は取得したが使用量は無料で開放した。四角の隅にある◻️を右端下の◻️だけ抜いて上部がどこか示している。これはビルの屋上からその全景を見ることを想定してヒントを得たという。やがてトヨタの部品検索技術はスマホの発展に伴いその枠を超え世界中に拡まった。

だが今そのことを言っている場合ではない。

兎に角QRコードの表示だ。女と二人で色々操作してみたが出て来ない。

紋太は時間に余裕を持って出勤するのだが、さすがにここまで戸惑っていると遅刻する。QRコード表示は断念するしかないと思い自分の電話番号を女に通知した。

諦めて2番ホームへ降りようとしたとき、やっとQRコードが出た。ヒビ割れだらけの女のスマホ画面はそれを認識しLINEが開通した。一先ず慌ただしい朝のひとときの出会いは終わった。

勤務先へ着くまで考えた、あの女は何者だろうか?日本で結婚相手を探してると言っていたが、まさか50半ばの紋太を対象にするわけもないだろう。或いは紋太の童顔と痩身が女の目を瞞着させたか?いやそれは自惚れに過ぎまい。山手線西日暮里駅のホーム辺りで顔を見られ狙いを付けられていたような気がする。上手く騙せそうな男だとでも思ったに違いない。

昼の休憩時間にスマホをみると挨拶程度のLINEが来ていた。眼を通したが返信はしなかった。女の名は白百合だった。少女漫画のヒロインのようなふざけた名前だと思ったが、“容貌からすると然程不相応な名だとも云えないか”と自分なりに納得した。その花は或いは都会の朝靄の中に佇む1輪の徒花であるのかも知れないが…

その夜再びLINEがあった。

「明日新宿でスーツケースを買いたい」

「僕に買って貰いたいと言うことか」

「自分で買います、貴方に新宿まで一緒に行って選んで貰いたいと思った」ということだった。

紋太は迷いつつも、その後の連絡は避けた。慌てないことだ。必要ならまた連絡してくるだろう。なければそれまでの話しだ。その後連絡は無かった。

 

在り来たりの日常の中で一つのドラマが始まりを向かえるのかも知れない。多くは失望を掴むものだが危険なドラマの始まりは誰でもある種の期待を持つものだ。

何処で、何が起こるか分からず、いつだって人は行き当たりばったりのその場凌ぎであり、その場が凌げなくなったらそれまでだ。

今生きていることは単なる偶然でしかないし、生きていれば常にそこに死が存在する。夕べに眠り、朝(あした)に目覚めることの不可解性。ゼノンの矢は飛んでいるのか止まっているのか? 時間は存在するのか、しないのか?

いずれにせよ人生は徒労に過ぎない。悪あがきを性懲りもなく繰り返し、繰り返す力が無くなれば死んで行く。何の価値もない。

とは言っても据膳は喰わねばならない。愚かなこととも云えるが欲望を抑え、不完全燃焼を来すことは精神衛生上余り好ましいことではない。人はこの愚かなことの繰り返しを死ぬまで続けて行く。悪行と挫折の連続だ。

紋太は誰かのために善なることをしようと思ったことはなく、そういう行為をした記憶もない。いやその前に''善なること''とは何かがわからない。幸せや健康を祈ることも考えたことがない。考えた処でそれ等が何かの役に立つのだろうか?

 

紋太は白百合という女のことを考え続けた。10年以上前ふとした偶然で中国人一家5人と数年間一緒に暮らしたことがあった。従って中国人と全く没交渉であった訣ではないが若い女との接触は初めての事だったので幾許かの緊張は抱かざるを得なかった。

紋太に近付いて来た目的は何か?裏で糸を引いている悪辣な斡旋屋はいないのか?中国マフィアは?金目当てか?一人で不安だからあちこち案内しろとでも云うのか?等色々考えると際限がない。方向性が決まっているのに、理屈付けなどどうでも良さそうなものだがあれこれ考えることは止められない。ある種の危険性は常にその行動の内に孕んでいるのだ。リスクの無い人生に意味などありはしないとでも考えるしかない。

 

1週間後の7月も間近に迫ったころ、今度は葛西で会いたいと言ってきた。新宿から一気に葛西に飛んだ。少し遠いが葛西は不動産の物件探しで行ったことがあるので場所に対する違和感は感じなかった。

「葛西のマーサージ店で13時から仕事があるので仕事前の1時間位会って話したい」ということだった。紋太は少し時間を置いて承知したと連絡した。

約束の日、チャージだけのSuicaと現金3万円のみを持って家を出た。用心深い性質(たち)の紋太はトラブルに出会った時の被害を最小限に留めたいと思い、免許証、保険証、クレジットカード等は全て家に置いた。上野から日比谷線に乗り、茅場町南北線に乗り換え葛西駅に着いた。11時40分だった。

 

「今車内でもう少しで着きます」と彼女からLINEがあった。

「中央口で待ってる」と返した。

「どこですか?」

「中央口だ」と再び返したが、少し経ってから

彼女から「今、西口に着きました」と着信があった。

中央口から西口までは距離はあったが「じゃーそっちへ行くから少し待って」と返信し紋太は西口に向かった。

西口に立って居た彼女の姿に紋太は驚きと戸惑いを感じた。西日暮里で出会った時と余りにも印象が違っていた。大きなスーツケースを持ちリュックサックを背負い紺色の地味なワンピースを着た白百合はまるで全財産を持って家出をして来たと云わんばかりの恰好だった。

白百合の案内で駅前のロッテリアに入った。ここは先に支払いを済ませるようで、あなた何しますかと白百合に聞かれたので紋太は“珈琲とサンドイッチを”と言った。白百合も自分のものを注文しさっさと二人分の支払いを済ませてしまった。ロッテリアの名を紋太は知ってはいたが入店するのは初めてだった。

2階は少し狭いがファミレスのような仕様になっていた。

「私は4月に日本に来ました。その前に姉と何回か来ています。

母が病気で入院しているけど姉弟が面倒看てるので心配ない。

私は日本で働き、日本人と結婚したい。好い人探している。あなた独身?」と彼女は姉と来た時写したスマホの写真を見せながら話をする。

「いや僕は結婚しているよ」と答えると

「独身じゃなくても好い人欲しい」と言ってくる。

出身は山東省だという。中国でも二番目の経済圏を持つ大きな省だ。大都市青島の中心地からバスで1時間位の処に住んでいたと云う。

「私はマーサージとコンビニの仕事がある。今日はマッサージの仕事です。今まで同じように中国から来た人達と4人で生活していたが、今日原木中山のアパートに住むことが決まった。仕事終わったらそこに行きます」

「富士山は近くか。京都へはどう行く?」 

傷だらけのスマホ画面を頻りに操作しながら紋太に矢継ぎ早に質問するが、穏やかな物言いは少しも喧しさを感じさせない。

その質問の間隙を突いて紋太は慎重に尋ねた。僕にどうして欲しい?

意味が伝わったのかどうか知る由もないがそれに対しての答えは無かった。想うにそれは「決めるのはあなたの方でしょう」と暗に紋太の心の中を見透かした上でのあざとい対応なのかも知れない。屈託のない話しぶりの中に時折見せる蠱惑的な表情が、二の足を踏んでいる紋太の煩悶する心の内を刺激する。50分は短い。会話は楽しいものであったが殆ど彼女の話を聞くことに終始したような気がした。

どうやら背後に何者かが居る訣でも、美人局でも無いようだ。しかし今後どうするかを自ら言い出すことも、白百合から聞きだすことも出来なかった。

帰りがけに飲み掛けの紙コップに入った彼女のコーラを「ちょっと持ってて」と言われ預かった。

特に次の約束をするでもなく、ロッテリアを出たところで白百合から預かったコーラを渡した。

彼女はスーツケースと大きなリュックサックを背負いコーラの入った紙コップを大事そうに持ってマッサージ店の看板の方に、振り向きもせず力強く歩いて行った。溌溂としたその歩みは見知らぬ国で新たな目的に向かって懸命に生きて行こうとする若く、清々しく、耀くような姿として紋太の眼に映った。

一面を覆う雲の彼方に、如何にも初夏を向かえようとするかのような僅かな青空が垣間見えた。彼は何か晴れやかな感じを覚えて暫く白百合を見送った。

その時、もうこの先白百合から連絡があっても無くてもいいと思った。西日暮里で逢って葛西で別れた女、たった2日間の、しかも数時間の出会いでしかなかった女、この先会うこともないであろう白百合と称する女に対して、これ迄人の幸せを願うことなど考えもしなかった紋太が、いつしか白百合の幸運を祈っている自分を見出だした。

彼は“らしくもないな”と自嘲しながらも、同時にふと肩の荷が下りたような解放感に満たされつつ葛西を後にした。

 

3カ月後白百合から連絡があった。

「あなたを探していた。スマホを新しくしたらあなたのLINEが消えてしまった。だからショートメッセージした」と。

白百合よ、さて君は何を求めているのか。

 

 

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