相沢三郎陸軍歩兵中佐

1935(昭和10年)当時、陸軍内では統制派と皇道派の派閥抗争が激化していたが統制派を重んじた林銑十郎陸軍大臣に任命された後は、皇道派主導者真崎甚三郎教育総監の罷免を始めとし、陸軍内皇道派の一掃を図った。真崎は強く抗議したが、林は頑として応じなかった。これで陸軍内の均衡が崩れ、陸軍は統制派の支配するところとなり、統制派の黒幕と目されていた永田鉄山は軍務局長の職に就いた。

皇道派であった相沢三郎中佐はこれに反発。台湾赴任の辞令を受けていたが台湾に行ってからでは実行不可能になるので、中佐は任務に就いていた広島県福山から上京し、永田を抹殺することを決断した。途中伊勢の皇大神宮に参拝し、自分の考えが正しいのであれば事が成就するよう祈った。

かくして、上京した中佐が陸軍省を訪れたのは昭和10年8月12日、時間は午前9:40頃、永田は執務中であった。相沢中佐は廊下に鞄とマントを置き、部屋に入り抜刀した。永田をを含め3人が在室していた。中佐は「天誅」と叫び、永田目掛けてまず袈裟懸けに斬りつけた。剣の達人でも、さすがに緊張したのか、この一太刀目の傷は浅かった。不意を突かれた永田は急ぎ隣の部屋に逃れようとした。中佐は覚えず刀身を左手で支え、渾身の力で背中より永田を刺し貫いた。その刀刃は永田の身体は無論、逃れようとした隣室の扉をも貫いた。中佐は更に顳顬(こめかみ)に

一刀を加え、作法に則り喉元にとどめを刺した。剣道4段、陸軍戸山学校で剣術教官を務めた、剣の達人相沢中佐の見事な太刀捌きと云えよう。

その後は全くの平常心で部屋を出、鞄とマントを手にし廊下を歩いて行った。

ただ永田を刺し貫いた時左手で刀身を支えたことで出血し、その手を見た官憲に手当てと称し医務室へ連行された。

中佐は取調べに対し、以下のように述べた。

「この件は天が自分の身体を借りて永田に天誅を加えたもので、私自身には係わりのないことであり、自分は直ちに台湾に赴任しなければならない」

また剣の達人としての自負を持っていた中佐は、迂闊にも左手を添えて己の手を切ってしまったことは誠に不覚であったと歎息している。

中佐は確信犯というより、その事を犯行とすら思ってない。しかし取調べは当然受けた。

 

中佐取調べの最中、雪積る1936年(昭和11)2月26日未明、陸軍青年将校約1500名による近代日本最大のクーデターが勃発する。直接は相沢事件に触発されたとも云われているが権門の腐敗、農村の疲弊は覆うべくもなく青年将校の怒りは頂点に達していた。

♪汨羅の淵に波騒ぎ、巫山の曇は亂れ飛ぶ

溷濁の世に我起てば、義憤に燃えて血潮湧く

権門上に傲れども國を憂うる誠無し

財閥富を誇れども社稷を念う心無し♪

 

岡田茂首相(叛乱軍の誤認により、身代りとなった松尾伝蔵が死亡、岡田は難を逃れた)、高橋是清財務大臣、斎藤實内大臣渡辺錠太郎教育総監等が死亡、警視庁、陸軍省参謀本部、東京朝日新聞首相官邸等が占拠された。

当初陸陸軍省等幹部は蹶起部隊に同調するかのようであったが、その態度は終始曖昧であった。案の定奉勅が下るや否や蹶起部隊を叛乱軍として鎮圧する方向に動いた。叛乱軍との衝突という不測の事態が想定され近隣一般市民は避難した。陸軍及び蹶起部隊の動きを察知していた海軍は東京湾芝浦沖に第一艦隊を集結させ、一旦ことあれば叛乱軍に占拠されていた国会議事堂を艦隊から砲撃する覚悟であった。且つ陸軍鎮圧部隊と共に海軍陸軍隊も蹶起部隊と対峙する一触即発の緊迫した状況となった。事件勃発から3日後の28日詔勅命令発布により、叛乱軍は逆賊となった。空中よりビラが撒かれ叛乱軍兵士達は已む無く各所属部隊へと戻って行った。クーデターは4日で一先ずの決着をみることとなった。結果的に陸軍の主導権は統制派のものとなった。叛乱軍青年将校十数名に死刑判決が言い渡され、その年の7月に刑が執行された。又直接の関与はなかったものの思想的基盤を啓蒙したとして民間人の西田税、「日本改造法案大綱」を著した北一輝も翌年処刑された。当初蹶起部隊に理解を示すような態度を取っていた陸軍上層部に処罰者は無かった。

再審なし、弁護士なし、非公開の暗黒裁判であった。

 

時代は既に激動の昭和の只中にあった。


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東映に「日本暗殺秘録」(1969年上映)という映画がある。映画監督は高学歴者が多いが、この作品の監督中島貞夫も都立日比谷高校から東大文学部へと当時の典型的なエリートコースを歩んだ。現在は開成から東大だが、学区群制度導入前は曰比谷高校が東大合格者数はトップだった。学区群制度が廃止されてからは再び日比谷高校の東大合格者は増加している。

そういうエリートコースを歩いた監督でも東映に入社すれば社の方針に従うしかない。中島のデビュー作はくノ一忍法帖であった。他に893愚連隊、任侠物、日本エロ地帯等多数ある。もっとも当時の東映の敏腕プロデューサー岡田茂も東大卒で中島とは先輩後輩の間柄だった。岡田自身、軀が大きく、声も大きく、言葉使いも荒く、まるで本物のヤクザのようだったと云われた。敏腕と云われた岡田は下火になってきた任侠路線からエロ路線へと舵を切ろうとしていた。エリート中島は「エロとヤクザの二足のわらじを履くようになった」と苦笑している。

 

日本暗殺秘録はそれらに属さない作品だが、上層部とのすったもんだのあげく、東映オールスター共演で桜田門外の変大久保利通暗殺、大隈重信暗殺未遂、安田財閥創業者安田善次郎暗殺、東京市会惨事星亨暗殺、アナーキスト集団によるギロチン事件、陸軍少将永田鉄山暗殺、井上日召を師と仰ぐ一人一殺の血盟団事件、昭和最大のクーデター2:26事件等九つの暗殺秘録を映像化したものだ。上映時間は142分と長くその殆どが血盟団事件の描写に費やされておりやや冗長気味だ。9件の暗殺事件の白眉は前記した相沢三郎中佐による永田鉄山暗殺シーンであるが、それはこの映画全体の上映時間142分中の僅か2分弱に過ぎない。相沢中佐に扮した俳優は高倉健であった。科白は「天誅」の一言のみである。まるで相沢中佐の心霊が憑依したような迫真の演技だった。142分中この2分弱のシーンがこの映画で目を見張るものであった。

高倉健東映を離れた後、様々な監督と退屈で、しかも東映の延長線上に過ぎない映画を何本か撮っているが、それ等の映画より、この相沢三郎という特異な軍人を演じた2分弱の東映時代の演技の方がはるかに面白い。

 

映画ではこの相沢事件に次いで2.26事件が映像化されている。相沢中佐は2·26事件の陸軍軍法会議審議の最中昭和11年7月、2.26事件の結審前に急ぎ銃殺刑に処せられた。

2.26事件後の相沢裁判は非公開で証拠申請は悉く脚下されていた。

中佐は長身で、筋骨逞しく、古武士の風格があり、謹厳実直、至誠の人であった。

刑を前にして申し残すことの有無を訊ねられた時

「一切のことは処理してありますので、何も思い残すことは有りません。色々お世話になりました。お蔭で健康でありました」

 

「私には目隠しをしないで下さい。武人の汚れですから」

「いやそれでは射手が困るので」

「射手が困る?そうですか、それでは目隠しをしましょう」と素直に応じた後、

一杯の水を飲み泰然として刑を受けた。

 

武士(もののふ)と云われた男達の居た遠い昔の話である。