日本橋「 時の鐘通り」2023年弥生の頃

あじさい通りを神田方面に向かって歩いた。

交差する本銀通りを左に曲がり、一旦中央通りに出て再び左折し、通り沿いを少し進むと

時の鐘跡の立看板が見える。


f:id:gaganbox:20230312224645j:image

数m先には夜半亭~与謝蕪村居住地跡の立看板がある。
f:id:gaganbox:20230312224554j:image

 

「時の鐘通り」は日本橋本室町4丁目5番から小伝馬町3番まで東に向かって延びている通りで、嘗て鐘撞新道(じんみち)としてあったものが2001年(平成13)、新たに「時の鐘通り」の呼名で復活した。

江戸の住民に刻を知らせるため、家康に命じられた鐘撞(かねつき)役が代々その任を引き継ぎ時刻を知らせ、日本橋3~4百町の住民から鐘撞料を徴収していた。石町(こくちょう)鐘楼堂は二代将軍秀忠のとき創建されたと云われる。住民は鐘の音を聞いて暮らしを立てていたのであろう。

川柳に"石町は江戸を寝せたり起こしたり"

とある。

また江戸俗謡に

"お江戸日本橋七つ立ち 初上り行列揃えてあれわいさのさ こちゃ高輪夜明けて提灯消す"

とあるが此れは江戸から上方に向かう旅人、恐らく長年奉公した丁稚等が休暇を貰い、まだ夜の明けやらぬ日本橋で石町の鐘、暁七つ時(虎の刻 午前4時)を聞いて、日本橋の左右の木戸が開かれるのを待ち一斉に郷里の上方へ旅立つ様子を唄ったものと云われる。

高輪辺りに来ると夜明けとなり提灯の灯もいらなくなったという意である。 次の唄は

"恋の品川 女郎衆に袖ひかれ 乗りかけお馬の鈴ヶ森" とある。

此のように京都に至るまでの東海道53次の宿場町の特徴を唄にして繋いでいる。

 

此の鐘楼堂近くに俳諧師早野巴人(はじん)が夜半亭宋阿(そうあ)と称して庵(いおり)を結んでおり、俳諧の講話を行っていた。若き日の与謝蕪村は宰鳥の俳号を持ち内弟子として、この舎に居住していた。

巴人三十回忌追善集では、「霜夜の鐘におどろきて、老いの寝覚めのうき中にも予とともに俳諧をかたりて」と当時師巴人と共に俳諧論議に興じていた様子が記されている。

看板にある鎌倉誂え物

"尼寺や  十夜に届く  鬢葛"

という曰くありげな句はその頃詠んだものと思われる。画も蕪村自身の筆による。

鎌倉誂え物及び尼寺ということから縁切寺として知られる東慶寺という説が多いが、

十日十夜を掛けて御礼・謝意の念仏法要を唱える十夜は一般的には浄土宗、浄土真宗の行事であり、陰暦の10月5日から10月15日迄行われる。東慶寺禅宗臨済宗であり念仏ではなく座禅での修業であることから十夜の仏行は無く、従ってこの句の場所は東慶寺では無いとの説もある。

何れにしても、その十夜の最中に鬢葛(実葛の別名で美男葛とも云う  花言葉は再会)が届けられるというのは何事なのか?

 

他に蕪村の代表的な句に以下のものが挙げられる。

"菜の花や 月は東に 日は西に"

"春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな"

"愁ひつつ 岡に登れば 花いばら"

"十六夜(いざよい)の 雲吹き去りぬ 秋の風"

"狐火の 燃えつくばかり 枯れ尾花"

"さみだれや 名もなき川の おそろしさ"

"梅の香の たちのぼりてや 月のかさ"

"白梅や 枯れ木にもどる 月夜かな"

 

師巴人の死後江戸の夜半亭は解散、蕪村は各地を修業漂泊した後京都に定住し、2代目夜半亭を継承する。尚、蕪村の墓所がある京都の金福時は臨済宗である。

 

 

#時の鐘通り#与謝蕪村居住地跡#夜半亭

#お江戸日本橋七つ立ち