衝撃を受けたピアノ演奏!グレン・グールド,マルタ・アルゲリッチ

 

感動を覚えたピアノ演奏は多いが、衝撃を受けたピアノ演奏は少ない。

その衝撃を受けたピアノ演奏が次の2曲で作曲家は何れもヨハン٠セバスティアン٠バッハである。

バッハを聴く度にバッハとは何なのかを思う。西洋音楽を突き詰めればバッハに始まりバッハに終わるのではないか。

100年間忘れられていたバッハはメンデルスゾーンマタイ受難曲の復活演奏で19世紀に蘇った。そして20世紀になりグレン・グールドのゴルドベルク変奏曲の演奏で、再び宗教・世俗を超えた偉大なる作曲家は甦る。

 

〈衝撃を受けた2曲〉

1つはグレン・グールドのバッハピアノ協奏曲第1番ニ短調BWV1052。

1957年(グールド25歳)5月18日のレニングラードライブ録音で、ラジスラウ・スロバーク指揮、レニングラードフィルハーモニー管弦楽団による。グールドはこの曲に付いて既にバーンスタイン指揮による正規録音を同年4月に行っている。勿論バーンスタイン指揮の演奏も素晴らしいものなのだが、レニングラードで行われたライブ演奏の方が、遥かにスリリングでしかも自由でのびのびとしているような気がする。

 

私はNHK-FM放送でグールドというピアニストを始めて知った。20世紀の名演奏か午後のクラシックアワーのどちらかだと思うが定かではない。解説は黒田恭一という方だったと記憶しているが(黒田さんの選曲は私の好みと合致していた) この時の解説者が黒田さんだったかどうかということも定かではない。兎に角その日放送されたグールドのレニングラードライブ、バッハのピアノ協奏曲第1番ニ短調BWV1052の演奏に釘付けとなった。アレグロ-アダージョ-アレグロと全楽章を通しての鋭く、緊迫感溢れる、スリリングな演奏。これ程興奮したピアノ演奏は嘗て聴いたことがなかった。

グールド初のヨーロッパ演奏旅行で最初の訪問先が当時鉄のカーテンの向こう側ソビエト連邦の大都市モスクワとレニングラード(現在のサンクトペテルブルクソ連時代のみレーニンの街の意でレニングラード)だった。

先ずモスクワで4回、次にレニングラードで4回の演奏が行われた。グールドの名前は知られておらず、更に宗教的なバッハ演奏は共産圏に於いて決して歓迎されるものでもなかった。従ってわざわざ名も知らぬ北米のピアニストの退屈なバッハ演奏を聴きに来るなど音楽教師位しか居なかったようだ。客席も当初閑散としており、空席の方が多い状況だった。

しかしグールドの演奏を聴いた数少ない人々はその演奏を聴き電光に打たれたような衝撃を受けた。見たことも無い奇妙な姿勢でピアノを奏でる、見知らぬピアニストの鮮やかなポリフォニー演奏に圧倒されたのだ。休憩時間に入ると聴衆の皆々は我先と夢中になって、それぞれの知人に電話をかけまくった。

「何事かが起こっている」に違いないと連絡を受けた聴衆か続々と会場に詰め掛け、後半の演奏時にはホールは聴衆で溢れ、入場が制限される状況であったと云う。モスクワでもそうだったが特にレニングラードでの3回目、バッハのBWV1052の演奏日にはシンフォニーコンサートの1400席は完売し、1000枚の特別立見券が発売される有様だった。

7年後には演奏活動を止めてしまうグールドだが、この等のコンサートでは鳴りやまぬ拍手に対し何度も聴衆のリクエストに応えた。終わらない拍手に、已む無く指揮者がピアノを片付けるように言ったという。それでも拍手は続き、グールドは帽子に手袋とオーバーコートという例の出で立ちで最後のカーテンコールに応じた。

トロントの天才の演奏の衝撃度は凄まじいものであり、ロストロポービッチ、タチアナ·ニコラーエワはその演奏を絶賛、嘗てモスクワ音楽院院長の職にあったゲンリヒ·ネイガウスは「グールドはピアニストではなく、これは事件である」と言い放った。

ネイガウスの弟子にはスヴャトスラフ・リヒテルエミール・ギレリス、ラドゥ·ルプー、スタ二スラフ・レイガウス(ゲンリヒ・ネイガウスの子)等錚々たるピアニストが居る。

グールドはこの地でリヒテルに出会い、彼の演奏も聴いた。

 

私はNHK·FMで放送された音楽は、余程好みに合わない曲意外は録音していた。グールドの演奏は勿論録音した。

その録音テープを肌身離さず持って毎日聴いた。車で通勤していたのでカセットデッキに入れて聴き、車を降りればカセットテープを取り出し家でも聴いた。その録音テープが傍に無いと不安だった。旅先へも必ず持って行った。ところが余りに何処へ行くにも持ち歩き過ぎた結果、何年後かに旅行先か、或は車の点検時かは不明であるが、私にとって宝物であった、そのテープを逸失してしまった。私は我が身の愚かさを呪い、愕然とした。家中、車中散々探したが見つからず、酷く落胆したことを覚えている。

 

CDが記憶媒体として世に現れるのは1980年のことであり、様々なソフトが発売されるのは1982年以降である。グールドの曲もCD化され、次々と発売された。有名なゴールドベルク変奏曲を始め、フランス組曲、イギリス組曲フーガの技法平均律クラヴィーア、二声と三声のインベンション、私は次々と購入していった。

が無くしてしまったレニングラード録音ライブはなかなかCD化されず、CBSソニーから発売されたのは平成も大部過ぎた頃になってからだった。勿論私は購入した。

音はより鮮明になったが、最後の拍手意外の臨場感は見事にカットされ、音域を超える響きや演奏の興奮のようなものが伝わって来ない。

だからと言って決してこのCDを聴いてがっかりしたわけではないのだが当時の騒然とした状態を含めたBWV1052の演奏が私に衝撃を与えたということから云えば僅かながらの喪失感はある。CD会社には音質を良くしようなどという細工をせずに演奏の雰囲気をそのまま伝えて欲しいと願う。

やはりその時々の一瞬の出会いが音楽の感動であるのだろうか。この頃私は既にバーンスタイン指揮の正規録音も聴いていた。もし最初に聴いたBWV1052がバーンスタイン指揮のものであったら、FM放送で聴いた程の衝撃は受けなかったかも知れない。

 

後年グールドはこのレニングラードライブの録音が残されていること(ソ連でグールドの許可なく発売された)自体に驚いたようだが、その自らの演奏を聴き「元気いっぱいの演奏だ、レコード化する価値はあったように思う」と述べている。LPが発売されたのが1980年のことであるから、グールドが自身の若き日のレニングラードライブを聴いた時と、私がNHK-FMで聴いた日は余り離れてはいないような気がする。


グールドは瞑想の中で、妙なる楽の音アリアに始まる魂の響のような2度目のゴールドベルク変奏曲を残し、翌1982年脳卒中で急逝する。死の枕元には「聖書」の他に愛読していた漱石の「草枕」の訳本が数種あったと云う。

 

1958年グールド25歳時の神業演奏ライブ

 

 

もう1つはマルタ・アルゲリッチ演奏によるバッハのトッカータハ短調BWV911。

1965年のショパンコンクールで優勝した彼女は才能と美貌を兼ね備えたピアニストとして日本でも良く知られている。

1961~1981年にリリースされた演奏を纏めたドイツ·グラモフォンの8枚組の輸入盤CDが私の手元にある。ショパンやリストやシューマンの演奏が多いが1枚のみバッハを弾いたものがある。トッカータハ短調BWV911はそこにあった。このアルゲリッチの1980年にリリースされたBWV911は何度聴いても興奮する。グールドやリヒテルの同曲も聴いてみたがアルゲリッチの方が断然良い。

 

アルゲリッチはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれた。8、9歳の頃ベートーベンのピアノ協奏曲第1番やモーツァルトのピアノ協奏曲第20番を公開演奏する等、早くからその才能は発揮されていた。

ブエノスアイレスにも著名なピアニストは訪れていたが、彼女の人生の転機となったのはフリードリヒ·グルダ(ベートーベンのピアノソナタ全32曲、ピアノ協奏曲全5曲演奏等の名盤がある)の演奏をこの地で聴いたことだった。

天才同士、相通ずる処があったのだろう。アルゲリッチグルダの指導を受けたいと思い、アルゲリッチの演奏を聴いたグルダはウィーンに来るなら、それは可能だと言った。

やがて彼女のピアノに魅せられていたブエノスアイレスの知事の紹介で大統領と彼女と両親が面会する。留学希望を大統領に問われたアルゲリッチグルダの指導を受けたいと申し出た。

大統領は彼女の父親を外交官、母親には大使館職員としての仕事を与え一家揃ってオーストリアに赴任させた。全く粋な計らいと云える。その翌年この大統領フアン·ペロンは軍事クーデターで失脚してしまうのだが…

 

こうして彼女はウィーンに赴き約1年半グルダに師事した。グルダは何人か弟子をもったが多くは弟子の拙い演奏に癇癪を起こし教えるのを止めてしまう。

但し「1人だけ凄いのが居た」と述べている。それがアルゲリッチだった。

このCDの解説冊子にはグルダの故郷ウィーンで当時教え子だった14歳のアルゲリッチと師匠グルダが一緒に写っている1955年当時の貴重な写真が掲載されている。

 


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