沙悟浄の旅立ち!

 

経蔵(説法)、律蔵(戒律)、論蔵(解釈)

合わせて大乗経三蔵の真経を求めて、長安の都を出で十万八千里の天竺への道を旅する玄奘法師、孫悟空、猪悟能の一行はこれ迄峩々たる山脈を越え、牙を剝く数多の妖怪変化を撃退し、道中益々意気盛んであった。しかしながら旅を続けて秋も深まる頃、一行の行く手に広がる洋々たる海の様な大河を目にした時、愕然として声も出ない有様だった。これは何としたことか、対岸すら見えぬではないか。と一行が思うや否や、秋の日の燦々と耀いていた空は一変、幅八百里、水深三千里(中国での一里は500m)の流沙河と呼ばれるこの大河に忽ち暗雲来りて、大波湧返り、流れは渦を巻き至る所に水煙が立ち上がって来た。

 

悟浄は流沙河に住む一万数千の妖怪のうちの一匹であった。姓は流沙河に因んで沙、名を悟浄といった彼は、妖怪でありながら愚直で素朴、常に自己不安と後悔に苛まれるという哀しい性(さが)の持ち主であった。此れ迄九人の僧侶を喰らうた罰で、それら九人の髑髏(しゃれこうべ)が自分の頸の周りについて離れないということだが、他の妖怪には彼の頸周りにそんな髑髏は見えなかったので、これ等の妖怪達は悟浄のことを「喰らうたのは鮒やざこ位で人間など喰っていないのではないかと疑い、悪い病気のせいなんだよ」と嗤うばかりであった。

 

悟浄は嘗て天上界で玉帝の御用掛を勤めておった捲簾大将(簾をかかげる役人の頭)であったが、粗忽者ゆえ手を滑らせ玉杯を床に落とし、割ってしまったことで下界に追放された。その後寒さと飢えに耐え忍ぶこと能わず九人の旅僧を喰ってしまい、その罪により醜い様相を呈し、流沙河に棲息するに到った。

懐疑的な彼は天上界に居た俺は本当に俺自身なのか?自己とは一体何なのか?と考えだすと食事も喉を通らず、物思いに沈む日々であった。それを聞いた鮐魚(ふぐ)の精が悟浄の病は死への恐怖にあると察して

「生ある間は死なし。死到れば既に我なし。何をか懼れん」と悟浄を諭した。

確かにそうではあろうが悟浄は特に死を懼れていたわけではなかったので、この言葉によって疑念が消失することはなかった。

悶々とした日を送っていた悟浄はある時、自己の迷いを解き放つべく、流砂河に棲息する、あらゆる賢人の教えを乞う決意を固め、遍歴の旅に出立した。

 

* 沙虹隠士(さこういんし)の言葉

沙虹隠士は年を経た蝦(えび)の精で、既に腰が弓のように曲がり、半ば河底の砂に埋もれて生きておった。隠士は深刻な顔付で次のように言うた。

「世はなべて空しい。この世に何か一つでも善きことがあるか。もし有りとせば、それはこの世の終りがいずれは来るであろうことだけじゃ。我々の身の廻りを見るがよい。

絶えざる変転、不安、懊悩、恐怖、幻滅、闘争、倦怠。方(まさ)に昏々昧々紛々若々として帰する所を知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は直ちに消えて過去となる。ちょうど崩れ易い砂の斜面に立つ旅人の足許が一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたら良いのだ。停ろうとすれば倒れぬ訳に行かぬ故、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと?そんなものは空想の概念だけで、決して、ある現実的な状態をいうものではない。はかない希望が、名前を得ただけのものじゃ」

悟浄は90日間この隠士に仕えたが、隠士は数日間続いた猛烈な腹痛と下痢の後に、かかる醜い容態を己に与えた客観世界を、自分の死によって抹殺出来ることを喜びながら斃れた。悟浄は懇ろに後をとぶらい、涙と共に、また、新しい旅に上がった。

 

* 坐忘先生(ざぼうせんせい)の言葉

坐忘先生は坐禅を組んだまま眠り続け、五十日に一度目を覚まされる。五十日目に再び目を覚まされ、前に坐っている悟浄を見て「まだ居たのかと」と先生。悟浄が「五十日待っておりました」と述べたところ重い唇を開き

「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外に無いことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械が出来たそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を蒔くことじゃろう。大椿の寿も、朝菌の夭も(大椿は長寿の木、朝菌は朝はえて晩には枯れてしまう茸の意)、長さに変りはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置(しかけ)じゃわい」と言終わるとまた目を閉じた。

 

* 白皙の青年が頬を紅潮させ、声を嗄らし叱咤して曰く

「我々の短い生涯が、その前と後に続く無限の大永劫の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ、また我々を知らぬ、無限の大広袤(だいこうぼう)の中に投込まれていることを思え。誰か、自らの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されて行く。我々は何の希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己欺瞞と酩酊とに過ごそうとするのか?呪われた卑怯者奴!

その間を汝の惨めな理性を恃んで自惚れ返っているつもりか?傲慢な身の程知らず奴!

噴嚏(くしゃみ)一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては左右出来ぬではないか」

 

* 斑衣蹶婆(はんいけつば。口が大きく斑模様を帯びたのような意か?)はもの憂い憊(つか)れの翳(かげ)を、嬋娟(せんけん。艶やかで美しいさま)たる容姿をどこかに見せながら曰く。

婀娜たる(艶かしい)その姿態はよく鉄石の心をも蕩かすといわれ、後庭に数十の房を連ね、容姿端正な若者を誑し込み淫蕩の限りを尽くておった。この女怪は既に齢(よわい)五百歳を経ているという。

「この道ですよ。聖賢の教も仙哲の修業も、つまりはこうした無上法悦の瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。この世に生を享けるということは、実に、百千万億恒河沙劫無限の時間の中でも誠に遇い難く、有り難きことです。しかも一方、死は呆れるほど速やかに私達の上に襲いかかって来るものです。遇い難きの生をもって、及び易きの死を待っている私達として、一体、この道の外に、何を考えることが出来るでしょう。

ああ、あの痺れるような歓喜!常に新しいあの陶酔!」

「あなたは大変醜いお方故ここに留まることは出来ませぬ」と女怪に告げられた悟浄は醜さが俺を救ったのかと憫笑し、更なる旅を続ける。

 

* ある賢人曰く

「記憶の喪失ということが、俺達の毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっている故、色んなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは俺達が何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりその時の知覚、その時の感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまってるんだ。それらの、ほんのわずか一部の、朧げな複製があとに残るにすぎないんだ。だから悟浄よ、現在の瞬間てやつは、何と、大したものじゃないか」

 

* 女偊氏(じょうし?)は次のように言った

「聖なる狂気を知るものは幸じゃ。彼は自らを殺すことによって、自らを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬものは禍じゃ。彼は自らを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に滅びるからじゃ。

何事も意識の毒汁の中に浸さずにはいられぬ憐れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずにおこなわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれた時、お前はそれを意識しておったか?」

 

こうして遍歴を続けてきた悟浄であったが

何処か釈然としなかった。「誰も彼も、偉そう見えたって、実は何一つ解ってやしないんだ」と自ら悟る。「お互いに解っているふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互い解りきってるんだから。という約束の下にみんな生きているらしいぞ。こういう約束が既に在るのだとすれば、それを今更、解らない解らないと云って騒ぎ立てる俺は、何という気の利かない困りものだろう。全く」という考えに帰結し、遍歴の旅を終えることにした。

 

悟浄は疲れて果て道端に倒れ、昏睡状態に陥った。幾日か眠り続けた後、ふと目を覚ますと青白い光の中に、風に消えゆく狩の角笛の音のような歌声が響くとともに蘭麝の匂いが漂って来て、何やら尋常人ならずと思われる、見慣れぬ二つの人影が此方に進んできた。覚えず頭を垂れた悟浄に、前の影が云う「我は玉帝に仕える托塔李天王の第ニ太子木叉恵岸。これにいますは我が師父、南海の観世音菩薩魔訶薩じゃ。爾(なんじ)が苦悩をみそなわして、特にここに降って得度したもうのじゃ。有難く承るがよい」

続いて、女人のものかと思われるような霊妙な声が響いて来た。

「悟浄よ、諦かに、我が言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。惟うに、爾は観想によって救わるべくもないが故に、これより後は、一切の思念を棄て、只々身を働かすことに

よって自らを救おうと心掛けるがよい。身の程知らずの『なぜ』は、向後一切打捨てることじゃ。

さて、今年の秋、この流沙河を東から西へと横切る三人の僧があろう。唐の太宗皇帝の綸命を受けて天竺に赴き大乗三蔵の真経をとらんとする金蝉長老の転生(生まれ変わり)、陳玄奘とその弟子の二人じゃ。悟浄よ爾も玄奘に従うて西方へ赴け。疑わずして、ただ務めよ。」

悟浄が再び頭をあげた時、そこには何も見えなかった。

 

果たしてこの秋、悟浄は玄奘法師に値遇し奉り、その力で、水から出て人間と成りかわることが出来た。

流沙河の暗雲は去り、濁流と水煙は消え、再び晴れた秋の日が拡がっていた。

頸の九つの髑髏は剥がされ、紐で繋がれた。中心には赤い瓢箪を置き法船(仏法にて衆生の沈溺を救う船)とし、これにて一行は八百里の河幅を難無く渡ることが出来た。

こうして悟浄は孫悟空、猪悟能と共に玄奘法師に従い天竺への旅へと向かうのである。

悟浄は未だぶつぶつ独り言を発しながら、時折懐かしむ如く泪を湛え、苦悩と逡巡の日々を過ごした地、はや遠退きつつある赤い夕陽に照らされた流沙河を懐かしく顧みた。

 

中島敦の「悟浄出世」による。

 

懐疑主義実存主義、悦楽主義、或は諦観思想等混淆とした妖怪賢人達の死生観は実に面白く、成る程と首肯するものばかりだ。

 

中島敦は宿痾の喘息疾患により、昭和17年33歳で病歿した作家である。「李陵」や芥川賞候補となった「光と風と夢」等の作品があるが、個人的には「悟浄出世」「名人伝」「山月記」の3作品が珠玉の短編と思える。

作品は各出版社から発刊されているが、青空文庫でも読める。