和光ビルや三越がある銀座4丁目交差点から勝鬨橋方面へ向かって晴海通りを歩いてみた。歌舞伎座のあるあたりは現在は東銀座と呼ばれるが以前は木挽町と呼ばれた。この名前は今も木挽町通りとして残っており、その周辺には銀座文明堂、喫茶YOU、どらやきのよしの、ビーフシチューの銀の塔、蕎麦の流石等数多の名店がある。
その歌舞伎座を過ぎ更に築地川銀座公園を過ぎると築地本願寺がある築地4丁目交差点に出る。右側は場外市場、左側は築地3丁目となる。
日本橋にあった築地本願寺は明暦の大火で焼失し、代替地として幕府から下命されたのは八丁堀の海上であつた。門徒衆は已む無くこの海上を埋め立て土地を築き本願寺を再建、以後築地の町は本願寺ととも発展する。
<本願寺の食事処第一伝道会館「紫水」>
この他にも人気のカフェ「Tsumugi」等が
ある。又本堂では毎月最終金曜日にパイプオルガンの演奏が行われ、無料で誰でも視聴出来る。
築地駅3番出入口辺りを右に曲がり聖ルカ通りを隅田川方面へ向かって歩くと芥川龍之介生誕の地、蘭学事始地、聖路加(ルカ)国際大学、カトリック系学校発祥地碑、聖路加病院等がある。現在のこの地域明石町、湊町一帯は江戸時代鉄砲州と呼ばれていた。
<聖ルカ通り>
<聖路加国際大学>
<聖路加国際病院>
<カトリック系学校の発祥の地>
<聖ルカ通りを突き当たると聖路加タワー>
<石段を降りると隅田川>
<聖路加タワー裏の和菓子の名店塩瀬総本家>
貞和5年(1349年)南北朝時代奈良で饅頭を作って売り出したのが
塩瀬の歴史の始まりという、670年前から続く老舗。
<居留地通り>
神戸、横浜を開港、東京、大阪を開市し外国人の居留を認めた。
東京の開市場を受け治外法権のもとに1868年(明治元年)現在の明石町一帯が築地居留地と定められた。
居留地には各国公使館、領事館が置かれ、多くの外国人が居住し、宣教師等による上写真のミッション系スクールの前進である学校も創立された。
1899年(明治32年)条約改正で居留地は廃止され、跡地には聖路加(ルカ)国際病院が創設された。
<聖路加病院の創設者トイスラー医師碑>