春三月 縊り残され ...アナーキスト大杉榮の俳句

      春三月  縊り残され 花に舞う

 

浪漫の薫りを漂わせつつ、底知れぬ頽廃と

虚無感に満ち溢れた衝撃的な句である。

俳諧の侘、寂の世界など吹き飛んでしまう。

明治・大正のアナーキスト大杉榮が、幸徳秋水や菅野すが等12人が処刑された大逆事件の後、同士茶会で詠った句で、幸徳等が記した文の行間に添書きのような容で残されてる。

 

大杉榮は(1885年明治18年~1923年大正12年)

現在の香川県に生まれた。父親は帝国陸軍軍人であった。17歳で上京し、翌年東京外国語学校仏文科へ入学する。在学中に幸徳秋水堺利彦等の社会主義思想に共鳴し、彼等が主宰する“平民社”に頻繁に出入りするようになる。

幸徳と堺は英語版からの重訳であったが日本初の“共産党宣言”を平民新聞で翻訳紹介している。

1906年(明治39年)大杉は日本社会主義運動史上初の示威活動とされる、東京電車鉄道等の賃上げ反対運動に参加する。暴徒化した大衆の行動は次第にエスカレートし、投石や線路占拠、電車数台を焼打ちする等の騒擾事件にまで発展、大杉は兇徒聚集罪により東京監獄に収監(今は収容と云うらしい)される。

保釈後は同罪で収監されていた松尾韶と共に堺宅に転がり込む。松尾は、その時堺宅に同居していた堺の義妹堀保子に思いを寄せ婚約、婚前旅行までするが、大杉はその保子を半ば手籠め同然にし松尾から奪いとってしまう。

松尾との婚約は解消され、大杉と保子は堺宅を出て同棲、保子は大杉の内妻となる(大杉にはこの頃同棲していた未亡人が居たが保子との同居により手切れとなる)。

大杉には定職がなく、暮らしは家庭雑誌の編集をしていた保子が支えた。

1908年(明治41年)には、屋上演説事件で逮捕、赤旗事件で再々逮捕された大杉は千葉刑務所に入りおよそ2年半の刑務所暮らしを送る。

語学に堪能だった大杉は一犯一語を掲げ、

収監される度に外国語の習得に努め、また翻訳も行っている。例えばダーウィンの“The Origin ofSpecies”を“種の起原”として翻訳(本邦2番目の訳本)したり、豊多摩刑務所収監中には本邦初となる“ファーブルの昆虫記”を翻訳している。

 

1910年(明治43年)大逆事件により幸徳秋水、菅野すが等26人が捕縛され、翌年1月2人を含む12名が処刑された。

赤旗事件により逮捕収監されていた、大杉、堺、荒畑寒村、山川均は危うくこの難を逃れる。

保釈後大杉は3月同士茶会で「春三月…」の上記句を詠う。

この大逆事件により社会主義運動は一気に求心性を失い、活動は冬の時代を向かえる。大杉は事態を打開すべく荒畑と共に近代思想、平民新聞を刊行するが次々と発禁処分

となる。

 

1911年(明治44年)平塚らいてうが女性文芸誌“青鞜社”を立ち上げる。会員の顔ぶれは、

与謝野晶子野上弥生子長谷川時雨錚々たるものであり、その中に神近市子も

居た。

神近は女子英語塾(津田塾大学の前身)在学中に青鞜社の一員となっていたが、英語塾創設者津田梅子はこれを咎め青鞜社を辞め卒業し青森の弘前女学校教師となることを神近に奨めた。神近は師の奨めに従い弘前で教師となる道を選ぶが、その勤務先の弘前の学校でも青鞜社に出入りしていたことが知られてしまう。糾弾され職を追われた神近は東京に舞い戻り日日新聞の記者となった。記者となった神近が取材で大杉宅に出向いた時が大杉との初めての出会いとなる。

その後神近は大杉が主宰する仏蘭西文学研究会に出席するようになり大杉と関係を結ぶようになる。神近の大杉への思慕の念は深く、資金面も含め、身を粉にして献身的なまでに大杉に尽くした。

 

ここに、強烈な個性を持った女性社会主義者

伊藤ノヱが参入する。

伊藤は福岡から上京し上野高等女学校に入学、そこで英語の教師として赴任してきた、辻潤と知り合う。(後に辻は自らをダダイストと称する。伊藤に去られた後はダダイズムに徹し、職にも就かず虚無的な人生を送り、飢え死にして生を終える)

伊藤には親に決められた縁談があったため、卒業後渋々郷里の福岡に帰るがこのような型に嵌まった生活に納得するはずもなく10日も経たず故郷を出奔する。

再び上京した伊藤は辻と同棲、学校側は問題視するが辻はあっさりと学校を退職し伊藤と一緒になる道を選ぶ。伊藤が17歳の時であった。3年の同棲後二人は婚姻するが、その翌年に伊藤は大杉と知り合い恋愛関係になる。

辻との間には既に2人の男子を儲けていた。

この間伊藤は平塚らいてうを訪問、青鞜社に通うようになり、‘新しい女達’に刺激を受け自身も次々と文章を発表する。

当時平塚は画家である若い燕を囲い込んでおり、彼女への信頼は揺らぎ、青鞜社内部では不満が燻っていた。既に意気喪失していた平塚は1915年(大正4年)青鞜社の編集、出版を伊藤に任せ、青鞜社という池の平穏を乱した若い燕と供に青鞜社を去る。平塚から青鞜社を引き継いた伊藤は、嘗て平塚が青鞜社創刊時「元始、実に女性は太陽であった」と述べたのに対し、「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と激しい言葉でその誌面を飾った。

「無主義、無規則、無方針」を基本理念とし、エリート女性のみでなく、一般女性にも

誌面を解放した。このような伊藤が大杉と結び付くのは自然の流れであったのかもしれない。伊藤は上記したように1916年(大正5年)2月頃には大杉と恋愛関係となる。この時点で伊藤、辻、神近、堀、大杉と五角関係の様相を呈していた。大杉は女に対してもアナーキーだった。やがて辻に愛想を尽かした伊藤は同年4月に子供2人を捨て、大杉のもとに奔り秋には同棲する。

大杉の気持が伊藤に傾いていることを知った神近は日夜煩悶、伊藤に対する嫉妬の焰は燃えたぎるばかりであった。

1916年(大正5年)11月神近は葉山の旅館日蔭茶屋に大杉が居ることを知り、短刀を懐にし旅館に乗り込む。ただならぬ神近の姿に、大杉は何か容易ならざることが起こることを予感したであろうが、その通り彼は翌未明、神近に短刀で首を刺され瀕死の重傷を負う。

世に云う「日蔭茶屋事件」である。神近はこのあと入水するが果たせず近くの交番に自首する。

青鞜社は廃刊となり、事件の翌年堀は大杉との内縁関係を破棄する。

伊藤は大杉との縺れた恋愛関係に勝利するが世間からは悪魔と罵られる。

しかし世間はどうあれ、大杉と伊藤の相性は良かったのであろう、絶えず官憲の監視の中にあり、また困窮に喘ぎながらも二人は多忙で充実した日々を送る。“クロポトキンの研究”、“二人の革命家”等の共著も著し、4女1男と5人の子宝にも恵まれる。長女の名は世間から悪魔と言われていることを捩って悪魔の子である魔子とした。

1917年(大正6年)レーニンによるロシア革命が起こり日本の労働運動も再び活発化する。

1920年(大正9年)大杉は上海で行われる社会主義運動に参加するため日本を脱出する。

続いて1923年(大正12年)ベルリンで行われる無政府主義者集会への参加目的で再び日本を脱出する。上海経由でフランスに到着した大杉はパリ近郊のサン・ドニアジテーションを行い、騒乱を起こしたとしてラ・サンテ監獄に収監される。

日本の無政府主義者大杉であることを知ったフランス当局は大杉をマルセイユから強制出国させる。

神戸に着いた大杉は既に日本におけるアナルコ・サンジカリズムの大立者となっていた。

 

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、死者10万人以上、全潰全焼失家屋30万棟に及ぶ未曾有の大震災が首都圏を襲う。

未だ凄惨な大混乱の続く最中の9月16日夕刻、神奈川鶴見方面から東京の自宅に戻っていた大杉38歳、伊藤28歳、大杉の甥である橘宗一6歳の3人は張込み中の麹町憲兵隊数人にいきなり連行され、憲兵隊司令部でその日のうちに扼殺される。3人の遺体は菰袋にされ練兵隊構内の廃井戸に遺棄された。首謀者として麹町練兵分隊甘粕正彦大尉他4人が検挙される(甘粕事件)。

軍法会議により甘粕は10年の禁固刑を受けるが3年弱で恩赦により仮出獄する。その後官費によるフランスへの留学を経て、満州映画協会理事長となる。

事件を指図したのは甘粕ではなく陸軍上層部との説はあったが真相は闇に葬られる。

 

 “美は乱調にある。今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる”

 

“最も好むのは人間の盲目的行為である。

 思想に自由あれ、

 しかしまた行為に自由あれ、

 そして更にはまた動機にも自由であれ”

 

果たしてぶっちぎりのサンジカリスト

大杉は花に舞狂ったのであろうか。

 

桜花舞う季節がまた廻り来た。

 

 

 

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