死について考えてみると

あらゆる哲学者は死とは何かを思考する。

いや、私のような甚だ愚昧な者ですら時々

考える。だが明確な答は見つからない。

誰も経験したことがないからだろうか。

イマヌエル・カントは「純粋理性批判」を始め批判三部作を書き、理性の至高性を説いた。カントの散歩は正確な時を刻み、その散歩コースに在るケーニヒスベルクの家々ではそれをもとに自宅の時計の狂いを直したという。アルチュール・ショウペンハウレルは「意志と表象の世界」であらゆるものは盲目的な意志により支配されているので人はその意志に隷属して生きるしかないとして“厭世感”を説き、セーレン・キェルケゴール

死に至る病」とは絶望のことであり、絶望には3つの形態があり“絶望して自己自身であろうとする”3番目の形態が絶望を深化させ真の自己に至る道であり、これを自覚することによってのみ病から逃れられる説く。

フリードリヒ・ニーチェは「アンチ・クリスト」や「ツァラトストアはかく語りき」で

千数百年来の西洋文明を否定、没落して

超人となり“永劫回帰”せよと説き、イタリア、トリノの往来で突如精神に異常をきたす。

いずれも文章は難解(特にカント)

で理解し難いが「アンチ・クリスト」には

衝撃を受けた。

 

中島敦は私の好きな小説家の一人だ。

彼は「悟浄出世」「山月記」「名人」等

何れも日本文学史上珠玉の短編を残し、

33歳という若さで喘息により死去した。

 

その「悟浄出世」から...

流沙河の河底に栖んでいた妖怪悟浄は9人の

僧侶を啖ったが、その骸顱(しゃれこうべ)が自分の頸の周囲ついて離れず、後悔の念に苛まれ神経不安に陥る。

その病変を治そうと様々な妖怪が悟浄に訓戒を垂れる。

「生ある間は死なし。死到れば、既に我なし

何をか慴れん」

「世はなべて空しい。この世に何か一つでも善きことがあるか。もし有りとせば、それはこの世の終がいずれは来るであろうことだけじゃ」

「我々の短い生涯が、その前と後とに続く無限の大永劫の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤の中に投げ込まれていることを思え。誰か、自らの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されて行く。我々は何の希望もなく、順番を待っているだけだ」等々

成る程と思うが悟浄は今一つ合点が行かない。やがて悟浄は夢うつつの中に、得もいわれぬ蘭麝の香りと共に天の声を聞く。

「唐の大宗皇帝の綸命を受け、真経をとらんとして天竺に赴く玄奘法師というものがある。爾も玄奘に従い西方に赴け」

夢のお告げの通り、悟浄は流沙河を通る玄奘法師に値遇し奉り、その力で河を出で、孫悟空や猪悟能と共に新しい遍歴の途に上る。

 

細胞のアポトーシス(プログラムされた細胞死)は生ある内は次々と繰り返され新たな細胞に入れ換わり、そのプログラミングが終了すれば鎖に繋がれた死刑囚の死は執行され個体は消滅する。

 

支離滅裂になってしまったが最後に巌頭之感

について書き終わりとする。

 

死を思考するところ、所詮当時一高(現東大)始まって以来の秀才といわれた18歳の藤村操が華厳の巌頭で水楢の樹を剥ぎ墨跡した、

以下の詩の諦観から誰しも一歩も抜け出していないような気がする。

 

巌頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍に赴いた(草枕より)

 

1903年(明治36年)5月22日、一高の英語の講師となった漱石が予習をしてこなかった

藤村操を叱責した2日後の出来事であった。

 

詩文は前後する...

 

“我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。

 

悠々たる哉天壌、遼々たるかな古今、

五尺の小躯を以て此の大をはからむとす。

略...

萬有の眞相は唯一言にして悉す

曰く、「不可解」。”