由香ちゃんといっても、もう60歳である。
背が高く美人で実年齢より若く見える。
30年前同い年の今の夫と結婚し、埼玉の浦和に戸建の建売を買い新婚生活を始めた。月並みのよく有りがちな起伏はあったにせよ生活は順調で一年後には女の子を一人もうけた。
優柔不断な夫に頼りなさは感じてはいたものの安定した会社の基で真面目に働く夫の姿を見ると、それ位の不満はとるに足らないように思えた。少々のことは我慢し、夫の足らないところは私が補って行けば良いことであって、それで家庭の平穏が保たれるのであれば充分幸せなのではないか、全てが充足されるようなことは有り得ないのだから。
由香ちゃんはそのような想いに至り、どことなく心の隙間を感じつつも、諸々の出来事に追われ、特に格別の困難に出合うこともなく、毎日は恙無く過ぎ行き、いつしか30年の歳月が流れてしまったと言う。
夫の定年は間もなくやって来る。
その後は非正規雇用となる。
満たされない心の隙間は続いている。
私は“このままでいいのかしら、何か自分を
犠牲にしてはいないだろうか、退職して家に居る夫と長い時間を供に暮らせるだろか?”
と数年前から考えていた事々が沸々として込み上げ、もはや感情を抑え切れなくなってきた。
夫の優柔不断は相変わらずだが、特にそれが嫌で堪らないというようなわけでもない。
自宅もある、娘も居る、近所の目もある。
人形の家のノラのように自我に目覚めたという程大袈裟なものではないし、若くもない。それどころかもう初老といえる年齢だ。
まして夫はヘルメルのように表裏がある性質ではない。
夫の定年を待って離婚する妻のことをあれこれ言われることは勿論承知している、なにしろ財産は折半なのだから。
だが...
30年間満たされることがなかった心の隙間を埋めたい、只々一人で自由に生きてみたいという思いが日毎に増幅し矢も盾もたまらなくなった。
例えその後に大きな陥穽が待っているにしても。
そして由香ちゃんは6月のじめじめした天候を払拭するかのように遂に独立を決断し、
夫に話を切出した。
「私、一人で暮らしてみたいの」
「なんだって、どういうことだ」
「一人で自由に生きたいということ」
「何が不満なんだ」
「不満なんてないわ、あなたはあなたの人生を、私は私の人生を歩みましょう、その方があなたのためにもなるのよ」
「何で俺のためになるんだ」
「あなたも自立するのよ、私がこの家を出て行くことで、あなた自身がより大きくなるの。これからは全てあなたが決断し、それによって成長して行くのよ」
「何て理屈だ、60歳にもなつて成長も何もあるものか」
「いいえ、生きている限り人は成長し、変化し続けるの、私はもう決めたの」
こんなやり取りの末、由香ちゃんは以前
学生時代に暮らしていたことのある目白に
住もうと思いついた。仕事は派遣でもパートタイマーでも雇って貰えればどんな仕事でもいい、兎に角働こうと思った。
不動産屋との交渉や大学卒業時以来の会社との面接、不安や緊張はあったが引き帰す気はない。
由香ちゃんの決断は揺ぎないものだった。
おおよその目途が付いたところで由香ちゃんはてきぱきと引っ越しの準備を調え浦和の家を出た。
数ヶ月一人暮らしをしてみると、伸び伸びとして生きている喜びが実感され、30年間もやもやとしていたあの心の間隙がいつの間にか消失していることに気が付く。
由香ちゃんはこれを更に確実にするため、
躊躇っていた離婚を決意した。
離婚届け、証人二人等全て由香ちゃんが用意し、夫に突き付けた。夫は押印すればよいだけだ。夫は不承不承であったが由香ちゃんに対し、決定的な反論を行うことが出来ず、家庭裁判所に持ち込むこともしなかったので、弁護士に依頼し協議離婚は成立した。
こうして由香ちゃんは60歳で晴れて気軽な
一人身となり、青春?を謳歌する希望溢れる生活を送れることに自ら喝采した。
離婚届けに印鑑を押した夫は動揺した気持ちが幾分和らいだのか由香ちゃんに次のように言った。
「また、プロポーズ出来るように頑張るよ」
「そうね」と由香ちゃんは曖昧に返答した。
勿論プロポーズされても、それに応じる意志は由香ちゃんには全くない。
おそらく、この期に及んでこういう感傷染みた戯言を吐けるような男につくづく愛想が尽きたのだろうと思いきや、その言葉自体は
許容出来ると由香ちゃんは言う。
そして前夫を深く愛する気持は離婚した今でも変わらないらしい。
以上、由香ちゃんが筆者に告白した概要である。
哲学書を好んで読む由香ちゃんからは
「脱皮しない蛇は滅びる」
「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」
「孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間に他ならない、何故なら孤独でいるときのみ人間は自由なのだから」
「卑しい人達は、偉人の欠点や愚行に非常な喜びを感じる」等々哲学者の格言が口を衝いて出てくる。
由香ちゃんの前夫への愛とはいかなるものなのであろうか。
アガペー的な愛で夫を包み込んでいるとも言えるが...
女心は摩訶不思議なものだ。