決闘

“泣くな20歳で死ぬにはありったけの

勇気がいるものだ”  付き添っていた弟に残したガロア(1811~1832)最後の言葉だった。

夜明けの決闘に敗れたガロアは拳銃で撃たれた傷が原因で腹膜炎を起こし病院で息を引き取った。

ナポレオン失脚後フランスは王政派と共和派

との絶え間ない政争に突入する。

ガロアはこのような政治状況の中で生きた。

16歳の時ルジャンドルの書物により初めて

数学に出合った彼は、以来数学の狂気に

取り憑かれる。二度に亘る入試の失敗(この

時試験官の詰まらぬ質問に腹を立て黒板拭きを投げつけたからだとも言われている)、

政治的陰謀による父親の自殺、科学学士院

に提出した論文が二度とも紛失の憂き目に

あう等の不運が重なり王政派への不満と

憎悪が募って行く。

結果急進的な共和主義者の道を歩むこと

になり、何度かの投獄と服役の後一人の

女性が絡んだといわれる不可解な決闘を

申し込まれる。

 

死を意識したガロアは決闘前夜、夜を徹して

彼自身の中では明確になっていた数学上の

アイディアを“時間がない”という焦燥に駆られながら友人シュヴァリエ宛に論文を夜が

白むまで走り書きする。

定理の正否ではなく、その重要性について

ヤコビかガウスに公の見解を求めて欲しい

と遺書にある。自身の数学上のアイディア

と先見性には絶対的な確信を持っていたこと

が伺える。

ガロアの論文が知られるのは死後数十年経ってからであり、ジョルダンの置換論により

その理論が確立されるのは更にその二十数年

後であったにせよ、シュヴァリエに託された

ガロアの想いは届いた。

この不世出の天才が数学に携わった期間は

僅か5年に過ぎなかったが “誰に認められる

事もなく二十歳で散った命” が残した

19世紀の最も美しい理論は近代数学

扉を開き、群論の概念は多くの分野で

認められる普遍的なものとなった。

 

4次方程式までは解の公式がある(3次方程式

はカルダノ、4次方程式はフェラーリが解の

公式を作っている)

5次方程式には代数的解がない、つまり四則演算とべき根を開くという手法では解けない

ことは既にノルウェーの数学者アーベル

(1802~1829)が証明していたが(この偉大な

証明も生前認められることはなくアーベル

は失意のうちに二十六歳で病死している)

ガロアは方程式の可解性の問題を解の入れ替えによる対称性の問題に帰着させた。

その対称性の集りを一つのまとまりとして

捉える群の概念を発見し、方程式の代数的

一般解法問題を本質的に完成させて

しまった。

問題の深奥にある本当の仕組み

を明らかにしたのである。