感動!幸田露伴『五重塔』,と谷中さくら通り

1週間前には少しも咲いてなかったさくら通りも今日3月24日は満開になっていた。

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以下は幸田露伴の小説五重塔の舞台となった天王寺五重塔跡地の写真。
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露伴は2年間この近くの台東区谷中7丁目(当時は下谷区谷中天王寺町)に住んでおり、毎日のように塔を眺め、小説の構想を得たようだ。

露伴が住んで居た場所は現在は一般の民家となっているが、当時から有った珊瑚樹は保存されており、樹の前に案内板が立てられている。

此処から墓地沿いに銀杏横丁を通り、左に曲ると銀杏通りとなり、さくら通りに突当る。その目前に塔が建っていた。

 

天王寺本堂は日暮里駅南口を出てもみじ坂を登り切った処にある。創建時は感應寺と呼ばれていたが幕命により日蓮宗から天台宗に改宗し、寺名も天王寺と改称した。五重塔跡地は桜並木のほゞ中央に位置する。

最初の五重塔寛永21年(1644)に創建されたが明和9年(1772)の目黒行人坂の大火(行人坂は目黒駅から雅叙園にいたる坂)により焼失した。この火事は根岸や千住にまで及び江戸中に甚大な被害を齎した。明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つである。

露伴の小説五重塔は初代の塔焼失後19年を経た寛政3年(1791)近江国高島郡の棟梁八田清兵衛等48人によって建立された2代目五重塔を題材として書かれた作品である。

 

   あらすじ

「木目美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵もなく唯一人、少しは淋しそうに坐り居る三十前後の女」~

という書き出しで始まる流麗な文章は最後まで衰えることなく、物語の緊迫性と相俟って感動をより増幅させる。主人公は技倆は確かなものの、ぶっきら棒で、人付き合いも悪く、世渡り下手で、仕事と云えば長屋の羽目板の繕いやら、馬小屋の箱溝の数仕事位でこれといった仕事は何一つ成したことのない職人であり、同業者からはのっそり十兵衛という諢名さえ負わされ蔑みを受けていた。

こののっそりが五重塔建立の話を聞くや俄に自分がどうしてもこの塔を建てて見たいと、まるで物怪にでも取り憑かれたような執念を見せるのである。

埋もれたしがない職人風情に大事な仕事を任せることは檀家方や寄進者方の手前もあり、のっそりに出来ようはずもないと同業者も含め寺の人々も皆々そう思うに違いない。増して感応寺庫裏殿を見事に造った川越の源太棟梁が五重塔を建てるものと誰しも疑わず、寺からも所望され見積りさえ出している処であった。然なきだにこの源太棟梁から仕事を宛がわれているのっそりが今更のこのこと五重塔を建てたいと名乗り出るなど論外の事であった。

しかるにのっそり、源太親分への義理も人情もかなぐり捨て、本来なら目通り叶わぬ寺の上人様の元へ直々に塔を建てたいと懇願すべく会いに行くのである。寺の用人は、汚なきのっそりに何用あって寺に参ったかと聞き糺すも、のっそりは上人様でなければ話せぬと我を突っ張り、寺用人皆々外へ出ろと言うものっそり頑として動かず、用人、役僧共々にこの狂漢を力ずくで門外に押し戻そうと悶着しているところに上人通り掛り、何事かと問い質す。上人の声聞くに及び寺用人皆々無体な行いに恥じ入り体裁悪げに鳴りを潜める。その様なことならば直ぐ取次げば済むことではないかと上人寺用人に申す。

上人はのっそりの汚なき姿など構うことなく、気の毒のことをしましたなと自ら話を聞くべく部屋に案内するのであった。

いざ上人と膝交え直々に話すとなるとのっそり感涙に咽ぶと共に元来話下手の処に緊張の余り物言いも覚束なきところであったが、流石に蛍雪の苦学を積まれ、涅槃の真を会して執着の彩色に心を動かすことも無き朗円上人、にこやかな笑みを湛えてのっそりに曰く、さぞかし何か深う思い詰めて来たことであろう、私をば怖いものと思わず朋友同様に思ふて遠慮を忘れて緩りと話をするがよいと申される。のっそり益々感極まりながらも、ようやくこれ迄の経緯、我が思いのたけを朴訥として話しける。

 

五重塔建立の話が出てからと云ふもの私が建てるなど思いもよらぬ事とはいへ、日毎其の思い益々募りし処、或る夜恐ろし気な人に夢現の中で吟附けられました。「五重塔を汝作れ今直ぐ作れ」と。其夜からというものは、白木造りの五重塔がぬっと突っ立って私を見下ろしてをります。到底及ばぬとは知りながら毎日仕事を終ると直ぐに夜を籠めて五十分の一の雛型を造り、昨夜で丁度仕上げました。御上人様どうぞその雛型を見て下され。

 

此を聞いた上人、のっそりの殊勝な心掛と真心こめた言い分に甚だ感服し、のっそりの頭を下げるを制し、今日は閑暇もあれば、汝が作りし五十分の一の雛型を直ぐさま見に行こうと申される。然るにのっそり此には流石に恐縮し、今すぐ此方に持って参りますればと慌てふためき長屋に帰り作り上げた雛型を上人の基に届け置きて帰る。

上人此を見て初重より五重に至るまでの配合、屋根庇廂の勾配、その他細部に至る迄の割賦、細工ぶりに、これがあの、のっそりと言われし不器用者の手になるものかと疑はるる程水際だった巧緻な雛型を見て、かほどの技倆を持ちながら名を発せず空しく世を経るものの憫然(あわれ)たるやと一人密かに嘆じたまふ。我図らずものっそりが胸に懐ける無価の宝珠の微光を認めし縁により、この度の仕事彼に命け少しの報酬をのっそりが誠実の心に得さんと思われけるが、川越の源太に本堂庫裏殿作らせし因みあり、彼とて腕に間違いなく、人望は明らかにのっそりに優る。更には今回の五重塔の設計予算まで既に出させ4、5日前に其を目にしたところでもあった。

一つの仕事を二人に委せること、流石に上人といへど迷いける。

或る日上人二人を呼び、仏説にある兄弟譲合いの例え話を問わず語りに話しながら、

老僧は構わん二人で良く相談して決めよと申された。

 

源太、上人の話を聞くに及び、己の手にて建てるべきであった塔を、そこは義に厚い親分気質、のっそりに半口与って二人で塔を建ててもよかろうと慮っていた。

然しながら本来ならのっそりより頭を低くして、何卒半分なりと仕事を割与えて下されと頼み来るところ、のっそり一向に現れる気配なく、さしもの源太此には痺れを切らし自らのっそりの家へと赴く。

「どうだのっそり不満はあろうが俺が主として、汝が副で二人で塔を建てようではないか」と言う。のっそり只々頭を垂れ、恩ある親方様を差し置いて私ごときが出過ぎたことを言いました。のっそりはのっそりのまま終わります。上人様の話を聞いてこの十兵衛きっぱりと諦めました。のっそりは親方の建てし五重塔を見ればしあわせでございます。此を聞き粋でいなせな源太親方、俺一人で建てたいところではあるが、そうであっては俺の男が廃る、増して上人の例え話しつらつら思い浮かべ、我一人で建てるとなっては上人様の覚えも悪くなること間違いないと思い、「よしでは百歩譲ってのっそり、お前が主になりわしが副になろう。これで我慢してくれるか」しかるにのっそり答えて曰く、「それは厭でございます。主であり副であれ一つの仕事を二人でやることは厭でございます。どうか親方一人でやって下さい」と。親方ここに来て、やいのっそりお前は余程物の道理が解らぬ奴だと怒気鋭く言い放ち、よしそれならわし一人で立派に建ててくれるはとのっそり宅を後にする。

源太帰った後、よくよく考えるに、上人様の教え諭されしこと、得々思い詰めれば詰めるほど思案の限りを超えたり、ここは上人様の判断を仰ぎのっそりがやるも我が源太が建てるも上人様のお言葉に従うのみと、寺に赴き、先ののっそりとのやり取りを上人に話す。上人様がのっそりに委すとおうせなら、私は綺麗さっぱり諦めまする。此れを聞いた上人「さすがは源太、今そなたの言を聞けばもはや汝が五重塔を建てたるに同然じゃ」と申される。

「実は先刻のっそり来たりて、親方に会わせる顔もないと涙ながらに塔の建立を辞退する旨言ふてきたところだ。のっそりを可愛がつてやれ、可愛がつてやれ」との言葉にさすがに源太その言葉に合点し、ここに至り綺麗さっぱり自分は諦め、のっそりに委せてやろうと心に決める。

 

数日後のっそり宅に寺からの使いで急ぎ参れと口上あり、何事かと思い寺に出向くと、上人始め役僧円道、用人頭為右衛門揃いて、この度の生雲塔工事一切のこと言い渡す。本来ならこの度の建立、川越の源太に任せし処、格別のご慈悲を以ってのっそり十兵衛に確と任せることに相成った。辞退の儀は罷りならん。のっそりはっと俯伏せ身体打震え我が命さし出しますると深々と頭を垂れる。

 

紺青色に暮れ行く空に漸く輝り出す星を背中に擦って飛ぶ雁の、鳴き渡る音も趣味ある不忍池蓬莱屋裏二階に侠気に溢れる親方気質の源太、ここでのっそりとの因縁さらりと水に流し、仲直りすべく一席を設けた。更に少しでも手助けになればと、材木の委細、角木の割合算法、墨縄の引きよう、規尺の取りよう等の技術は元より、人足の手配、工夫重ねて描いた下絵図までものっそりに自由に使うがよいと風呂敷包みを解き、二束にした書類取出しのっそりが前に差し出した。

しかるに元来人の巾着で仕事するを良しとしないのっそり、「親方様誠に有難う御座いますがご親切は頂戴いたも同然、此れはそちらで御納めを」と膠もなしな言いぶり。

源太言ふ「此品をば汝は要らぬというかと」親切を仇にする様な言葉に慍を底に匿して問ふに、のっそり「別段拝借いたしましても」と悪気なしとは言へ迂闊な一句で答えてしまう。これには源太堪忍袋の緒が切れて「如何ほど自己が手腕の良くて他の好情を無にするか、開けて見もせず覗きもせず、知れ切ったことと云わぬばかりに汝十兵衛よくも撥ねたの。それならば十兵衛様一人で立派にお建てなさいませ。地震、風で壊るるようなことはあるまいな」と深く嘲る言葉に、のっそり返して「のっそりでも恥辱(はじ)は知っております」と底力味ある楔を打つ。

 

のっそりには世間一般の義理人情等無稽のしきたりなど考慮の外なのである。只々100年に渡るも残れし五重塔を我が技倆で造りたいとの一心しかなく、でなければ馬鹿ののっそりのまま終る方を望んだのだ。

 

この蓬莱屋での話を聞いた源太の弟分清吉は怒り心頭に発し、塔建立の普請音喧しい中、棟梁として何かと指図するのっそりめがけて手斧片手に「畜生、のっそり、くたばれ」と大喝しまっしぐらに突進する。のっそり驚きて振り向きざま、清吉驀向より、手斧打ち下ろし、のっそりが左耳を殺ぎ、傷は肩先迄到達する。

清吉は仕損じたかとばかり、尚ものっそり目掛けて踏込むが、地盤固めを引き受けたる、め組の頭、人呼んで火の玉鋭次親方にこの馬鹿野郎と取り押さえられる。

 

傷を負うて帰りたるのっそりだったが、翌朝いつもの通り疾く起きて、別段悩める容態もなく、普段の如く振舞えば、女房あきれ返って治癒るまでは慎むが第一とお医者様にも謂われているのに仕事に出かけるなど以ての外と問い質す。

高の知れた蚯蚓膨れなどで一日たりとも休めるものか。お前は知らぬが、表面は棟梁棟梁と言われるが、常日頃から馬鹿といわれし、我が指揮(さしず)に頭は下げながら、鼻で笑われ、口では謝りながら顔色では怒られ、陰では勝手に怠惰けるやら譏るやら散々茶にしていて、腹の中では泣きたいような事ばかりだ。その中で此日まで運びしところ、今日休んでは大事の躓き、何処が悪い、彼処が悪いと皆に怠けられるは必定。この時自分が休んで居れば何一つ言いようもなく、万が一にも仕事が仕損じてはお上人様、源太親方に顔が向けられるか。生きても塔が出来なければ、のっそり死んだも同然。二寸三寸の手斧傷で寝ていられるか。とのっそり女房に話しぬ。

 

あの傷ではもはや数日は出て来られまいと思ひ合ひたる職人共、早くからちらりほらりと仕事に取り掛かっているところ、まさかと思ひしのっそり現れ「皆精出してくるる嬉しいぞ」の一言を受け、一同吃驚き、この時より後、皆々励み勤め、昨日に変わる身のこなし。一を聞いては三迄働き、二といわれしには四まで動けば、のっそり片腕の用を欠いて却って多くの腕得る如し。のっそりが肩の傷治る頃には総檜造り、高さ十一丈二尺八寸(約34m)の五重塔天晴れ見事に完成し、金剛力士が巌上に突き立つ如く、巍然として聳え立つ。

僧徒、用人等初めはのっそりを軽しめたることなど忘れ去り欣喜雀躍す。

 

然るに落成式の日も定まりつつあった直前、暗雲垂れ込み、風増々強く、各々の家屋根剥がれ、瓦飛び、柳は倒れ竹は割れ、雨また沛然として降りしきり、数十年に一度あるかなきかの暴風雨来たりて、江戸八百八町の人々慌てふためき生きた心地なし。

基礎少なく、高さばかり高く、廻に遮るものもない出来たばかりの生雲塔も猛烈な風に波を打ち、豪雨のなかで倒れるを待つのみかと皆々不安に恐れ慄き、寺用人居ても立っても居られず掃除人七蔵に疾く十兵衛を呼んで来よと叱咤す。七蔵雨霰吹き荒ぶなか十兵衛宅に来たりけるが、憐れのっそりが家、屋根飛び、藁莚で雨凌ぐ姿。さすれども構わず七蔵早う塔を見に来よと言ふが、大丈夫です、此の位の嵐で塔は倒れませぬとのっそり。

わしが云うのではなく用人、役僧様の御言い付けじゃと七蔵尚云うも、のっそり、私は用人役僧様に言われて塔を建てたのではありませぬ。上人様なら如何なる雨風であろうと十兵衛呼べとは仰っしゃりますまい。上人様が来いというのであればいきましょうが、行く必要はありません。嵐が来ようと地震があろうと塔は倒れませぬ。と用人様に言ふて下されと愛想なく言い放つ。

七蔵仕方なく戻りしが、「馬鹿者め、上人様がお呼びだと謀る位気が付かぬのか」と言われ、七蔵再び防風吹き荒れる中のっそりが家に赴き用人に言われし通り上人様がお呼びだと謀りぬ。

のっそり此を聞き、それは真実でござりますかと落胆甚だしく、世界に我を慈悲の眼で見て下さるる唯一の神仏と思ふていた上人様が我が一心掛けて建てたものを真底からは信じておられなかったのか!ああ何と情けなし、もはや十兵衛の生き甲斐なし、一度はどうせ捨つる身、身の捨処よし、我が建てし塔壊れるならば、我もまた生雲塔の頂上(てっぺん)より直ちに飛んで身を捨てむ覚悟と嵐の中をさ迷い出でむ。いつの間にか辿り着きたる塔の五層まで上りあげ戸を押し開けて半身あらわせば、猛風暴雨のため呼吸(いき)さえ出来ずに思わず一足退くも奮い立って屈せず立出で、欄を摑んで屹っと脾めば、ただ囂々たる風のみ宇宙に充ちて物騒がしく、塔あわや傾覆らむ風情、のっそり覚悟して天命を待つばかり。

 

さて嵐過ぎ去りれば、何処の火の見が壊れた、彼処の二階が吹き飛ばされた、江戸で一、ニの大寺脆くも倒れ、浅草や芝の塔も損じあった中、感応寺生雲塔釘一本緩まず、板一枚剥がれることなく、蒼穹を仰ぎ粛然として屹立する。

 

小説は「宝塔長へに天に聳えて、西より膽れば飛檐ある時素月を吐き、東より望めば勾欄夕に紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、譚は活きて遺りける」と珠玉の名文で完結する。

 

事実八田清兵衛が棟梁となって建立したこの五重塔上野戦争関東大震災、大戦の災禍も逃れ1957年(昭和32)の心中放火事件により焼失するまでの166年間谷中地区の象徴的建造物であった。

 

我が微々たる読書歴のなかでも、芥川の「奉教人の死」や鴎外の「山椒太夫(安寿と厨子王)」など目頭を熱くする小説は読んでいたが、露伴の「五重塔」はこれ等に優るとも劣らぬ万感胸迫る感動的な作品であった。

 

#幸田露伴 #近代文学史上の傑作

#谷中のランドマーク #天王寺五重塔

#近江国高島郡 #八田清兵衛

#のっそり十兵衛

 

 

 

染井吉野発祥の地 駒込

<駒込駅傍にある染井吉野記念公園>

  駒込染井吉野発祥の地であり、染井吉野は江戸彼岸桜と大島桜を人工的に交配したも のと云われる。この公園にはその二つが植えられている。
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<色褪せているが郵便ポストも桜色>
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染井通りは六義園の染井門前の斜め前から真っ直ぐに延びた道で染井霊園まで続く。

歩いて直ぐ右側に日本で凮月堂、森永製菓に次いで3番目(大正3)にチョコレートを販売した1886年(明治19)創業の芥川製菓がある。商品はホテル、レストラン等主に業務用に作られている。学生時代から山手線から見える看板が気になっていて、1度味わってみたいと思っていたが、直営店が池袋ショッピングパーク内の1ヶ所しかなく実際に食したのは卒後20年程たってからであった。購入した板チョコはいかにも老舗らしい上質な味がしたことを覚えている。クリスマスやバレンタインデーの後年数回本社でセールがある。整理券が配られ毎回行列が出来る盛況さである。

近年はオンラインショッピングも行っているようだ。

<池袋ショッピングパーク内 芥川製菓>f:id:gaganbox:20210420154613j:image

 

芥川製菓を過ぎるとすぐ染井橋があり、ここから霊園まで歩いて7~8分といったところか。

<染井橋>
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<染井霊園>

二葉亭四迷岡倉天心、山田美妙、高村光雲・光太郎・智恵子、波多野精一若槻礼次郎等著名人の墓所も多い。

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染井霊園から駅方面に戻ると間もなく交番があり、そこを左に曲がると染井よしのさくらの里公園が見えてくる。

この辺を含む一帯、駒込小学生、門と蔵の広場、染井神社周辺が染井村と呼ばれた。江戸の頃駒込は柳沢家、建部家、藤堂家、松平家等の大名屋敷があり、それ等屋敷の庭の手入れをするため、多くの農民が駆り出された。そこから庭職人、園芸職人が生まれこの地域に居住するようになり、菊やつつじなど四季折々の花々が栽培され、多くの植木屋が軒を連ねる一大園芸名所となっていった。

染井吉野は江戸末期から明治に掛けて吉野桜として売り出されたが大和の吉野桜と区別するため染井村の染井をとり染井吉野と呼称されるようになる。

 

<さくらの里公園>

染井吉野は既に散っており、咲いていたのは牡丹桜だった。
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<染井神社>

今回4月3日はほゞ散ってしまっていたが、満開時の神社から駒込小学校に至る迄の桜並木は見事な染井吉野に彩られる。
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<門と蔵のある公園>
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<花咲か七軒町植木の里>
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都区内桜巡り 東工大(大岡山)~六本木

東急目黒線大岡山駅   駅上は東急病院
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東工大 大岡山キャンパス>

大岡山駅の信号を渡れば直ぐ大岡山キャンパスが拡がる。

東京工業大学は現在9つある指定国立大学法人の1つで、日本最高の理工系総合大学。

1881年(明治14)浅草蔵前に東京職工学校として創設されたが1923(大正12)の関東大震災で灰燼に帰した。

1924年(大正13)に現在の大岡山に移し、1929年(昭和4)東京工業大学となる。f:id:gaganbox:20210325162522j:image

<百年記念館>

創設100周年を記念して事業化され、学校の科学・技術の教育研究の歴史を展示・保存している博物館。
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<本館前の桜並木>

1950年(昭和25)頃植樹されたと云われている。

通りのウッドデッキの処にはベンチが多く置いてあり、学生はもとより家族連れやカップル等一般の人達も自由に花見を楽しめる。

今年(2021)、並木通り内は侵入禁止。
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<キャンパス内>
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<図書館>
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六本木ヒルズ辺り

ヒルズ66プラザ>
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<六本木さくら通り>

けやき坂通りから枝分かれして、南側をけやき坂に平行して走り再びけやき坂に合流する区間400m程のさくら通りで約75本の桜木がある。

3月24日のこの日、満開の桜は道路を覆い尽くす程であった。
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<歩道橋からの眺め  下の道路はほゞ見えない>
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ヒルズレジデンス、六本木ヒルズ、桜>

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再びけやき坂に合流する辺り。

公園もあり、麗らかな春の日射しを浴びながら滑り台に遊ぶ子供達の歓声が聞こえる。

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<毛利庭園>

中国地方を制した戦国の雄、毛利元就の孫

である甲斐守秀元の上屋敷跡地。

六本木ヒルズ建設により面積4300㎡の池泉回遊式日本庭園として再整備された。
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春は何やら悲しく、夏は虚しい。

秋は切なく、冬には凩が體を吹き抜け、

身は朽果てる...

 放浪の歌人西行の心境むべなるかな。

 

*花見れば そのいはれとは なけれども

  心のうちぞ 苦しかりける

*花に染む 心のいかで のこりけむ

  捨て果ててきと 思ふわが身に

*世の中を 思へばなべて 散る花の

  我が身をさても いづちかもせむ

                                                           西行

     

 

 

 

 

東日暮里の風景~谷中寛永寺~恩師公園

ここ1~2年で東日暮里の風景が様変わりした。商業施設東日暮里計画により旧音無川沿いから尾竹橋通りまで数十棟のマンションが新築され、更に建設中の物件もあり工事音が喧しい。

 

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1年程前から建設中であったスーパー、ライフコーポレーションも今年3月にオープンした。建設中は建設主体が大丸松坂屋と書いてあったので、このような場所にデパートを造ってどうするのかと要らぬ心配をしていたが中に入ったのはスーパーライフだった。

元々松坂屋の流通センター跡地(その前は松坂屋社宅)であったところに建てられた地下1階地上4階建てのライフは荒川区最大級のスーパーマーケットで、ワンストップショッピングを可能にした規模になっている。JR山手線駅環内のスーパーは概ね規模が小さく、品揃えも乏しいがライフ東日暮里店は、新築の強みを生かし、陳列も美しく、商品も充実している。売場は地下1階と地上1階の2ヵ所のみで2~4Fは駐車場となっている。

駅から歩いて5分という距離と夜12時までの長時間営業により利便性は極めて高い。

この地域の世帯比率は単身約53%、2人世帯が

約20%と少人数世帯が7割を越える。人口構成は30~40代が34%と最も高く、若い街と云えよう。

 

SDGs(Sustainable Development Goals)。

持続可能な開発目標なる国際目標が2015年の国連サミットで採択されているらしい。持続可能な世界とは一体何なのだろうか。

地球環境のためには人類はさっさと滅亡した方が都合が好いような気がしないでもないが人々が存続するのであれば街が消滅するよりは繁盛した方が良いのかも知れない。

 

<オープンしたばかりのスーパーライフ>
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以下はライフで購入したもの。
限定販売のライフオリジナル極旨冷凍プリン日暮里は1個498円と高価だが、北海道サロベツ厳選牛乳、北海道産卵等素材にもこだわった品で濃厚で美味。瓶には夕焼けだんだんがデザインされている。

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レトルトカレーの元祖。昭和43年の発売当時とデザインも味も変わらない。
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デザートもコンビニより豊富にある。御行の松通りの根岸に本店がある老舗竹隆庵岡埜の和菓子も購入できる。
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なお銀座シックス(旧松坂屋)にも分霊遷座された火防の神、靍護稲荷大明神は建物の隣に勿論鎮座まします。
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<鳥居献納記念碑

 伊藤祐茲は上野松坂屋16代当主>

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ここから日暮里駅迄歩く。写真のもみじ橋を渡り南口へ向かう。南口から左側のもみじ坂を登ると谷中さくら通りへと繋がっているが今回は右に折れ西口の方へと歩いた。

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<昨年リニューアルされた西口改札>
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東口は日暮里中央通り(にっぽり繊維街)へ。通りを 左に行けば夕焼けだんだんに出る。

この日はこの西口改札傍の階段を登り谷中さくら通りへと向かったのだが谷中の桜は少しも咲いていなかった。

次いで寛永寺から上野恩賜公園へと歩いた。

 

<満開の寛永寺枝垂れ桜>
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寛永寺根本中堂>

徳川五代将軍綱吉の時代元禄11年に創建された。元々上野公園の大噴水の辺りにあり、間口45.5m、奥行42m、高さ32mの大伽藍であったが上野戦争で焼失した。現在の中堂は子院であった大慈院跡地に川越喜多院の本地堂を移築したもの。

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<中堂内の庭に咲く桜    おそらく陽光>f:id:gaganbox:20210329135127j:image
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<上野中学校の陽光桜 >     

陽光は天城吉野と寒緋桜を交雑させたもの。染井吉野より早咲きで花弁は鮮やかな桃色を呈する。
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<上野桜木で見付けた源平しだれ桃>

桜の季節を迎える頃満開となる。一本の木に赤、白、又は絞り(赤白混じり)の三色を咲かせるものもある。通常は赤の花弁を付けるが、遺伝子変異による酵素の失活でアントシアニンの発色が阻害され白となる。

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この桃花を見た時、嘗て美しい星空で有名な長野県阿智村を旅した折、枝垂れではないが、月川温泉郷の花ももの里に並ぶ5000本に及ぶ紅白の花桃の美しい景観に圧倒されたことを想い起こした。

 

<藝大音楽部の未だ満開前の染井吉野f:id:gaganbox:20210320204626j:image

恩賜公園内の既に散り始めた寒緋桜>

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 <恩賜公園の満開の陽光桜>f:id:gaganbox:20210322143004j:image
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<グラント将軍植樹碑前の染井吉野f:id:gaganbox:20210329143952j:imagef:id:gaganbox:20210329144028j:image
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鳥羽伏見の戦いで討伐大将軍として参戦した小松宮彰仁親王銅像染井吉野

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上野東照宮参道から>f:id:gaganbox:20210402210128j:image
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<八重咲きの紅豊(不忍池で)>
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<八重紅虎の尾(不忍池附近で)>
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不忍池染井吉野
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毎年春が来れば、50種類以上約の800本の桜が上野恩賜公園を彩る。

 

花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ

あたら桜の 科(とが)にはありける

 

願はくは 花のもとにて 春死なむ

その如月の 望月の頃

                                                  西行

 

ゴートゥートラベル& 帝国ホテル

都心に住みながら都内のホテルへゴートゥートラベルを利用して宿泊しようなど想ってもみなかった。しかも今程多くはないものの、ウィルス感染者が減っているわけではなかったし、この企画が全国的に感染を拡げたという批判もあった。

ハルちゃんの強い要望でもなければ加瀬は、この企画を利用することなど考えもしなかったであろう。彼女の希望は例えば帝国ホテルのような格式あるホテルへ泊まってみたいと云うことだった。ハルちゃんは東京で暮らし始めてから15年以上になるが、ラウンジでお茶をしたことがある位で、帝国ホテルに宿泊したことはないという。感染の不安はあったが、コロナ禍のなかで自由な外出を制限せざるを得ない昨今、偶にはハルちゃんと、庶民のささやかな贅沢とも云えるような機会を少しでも持ちたいと思っていたところでもあったので加瀬もハルちゃんの計画案に同意した。

帝国ホテル以外にも色々なホテルをリストアップしたが、結局ハルちゃんは帝国ホテルを希望した。すぐ満室になるため、予約は急がねばならなかった。毎日部屋が埋まって行くからだ。10月中旬に予約サイトを検索したところ、幸い11月の2連休に空室があることを見つけ宿泊予約をした。

通常宿泊の40%オフで、8000円の食事券が付くかなりお得なプランだ。

 

その後念のためホテルに電話し、感染対策についてと、こちらで用意するものなどの確認を行った。それによればタワー館の方は感染対策上閉館しているとのことであったから、予約自体はタワー館での予約だが場合によっては、タワー館の価格で本館へ宿泊することがあるということであった。価格は勿論本館の方が高い。また、予約した時点でゴートゥーの企画対象となっており、当方で用意するものは特にないとのことだった。通常の予約と変わらず、存外簡単なものであった。

今回のブログは特に何を考えるでもなく時間の経過のみを追って行くことにした。

 

<ホテル正面>
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<ハルちゃんとは1階のランデブーラウンジで待ち合わせをし、昼近くだったのでサンドウィッチと珈琲をオーダーした。サンドウィッチ2250円、珈琲1杯1430円と値段はそれなりに高い>
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食事が終わってから、日比谷か銀座で映画を観る予定でいた。チェックインが14時だと記憶していたので、荷物だけホテルに預けておこうとカウンターに行ったところ、もう既にお部屋の準備が出来ているのでご案内出来ますとのことだった。これには感激したし、やはりタワー館は閉鎖されており本館の案内になるというから増々上々だった。銀座側か皇居側かを選べるとのことだったので銀座側を希望し、13時頃には部屋に入った。

<ホテルから銀座方面。天気晴朗>

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少し休んでから映画を観に行くことにした。ハルちゃんは加瀬の好みをある程度知っていたのだろう、加瀬が観たいと思っていた映画を何本か既にLINEで案内してくれていた。

それはオックスフォード英語大事典作成をテーマにした「博士と狂人」と、以前読んで気に入っていた直木賞受賞作家桜木紫乃原作の「ホテルローヤル」だった。但し、ディナーが18時からなので、それ迄にはホテルに戻らなければならない。「博士と狂人」は銀座で上映していたが満員で入場不可だった。直ちにミッドタウン日比谷に引き返し、「ホテルーローヤル」を見ようとしたが時間的にディナータイムと重なってしまうためこれも諦め、予定していなかった其れ程見たくもない映画(タイトルは忘れたがグリコ、森永事件扱ったもの)を観た。

がハルちゃんと映画を観ればよいので加瀬にとって映画の良し悪しは余り問題ではなかった。

 

<ミッドタウン日比谷>

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<映画を観終わってからディナータイムまではミッドタウンの夜景を楽しんだ>

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<ディナータイム。フルコースは体力的に無理なのでプリフィックスディナーを予約しておいた。

ステーキコースで、ワイン、デザート、珈琲又は紅茶付である。ハルちゃんはここの自慢のデザートの一つである有名なパンケーキを食べたことがないというのでデザートはそれにするよう勧めた>


<ワインで乾杯>
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<前菜後のステーキ。量は多かった>
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<パンケーキミニセット>
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<アイスクリームとシャーベットセット>
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テナントレストランを除き、今回パークサイドダイナーとラウンジ、レ・セゾン以外の直営レストランは感染対策で閉鎖されていた。

 

<銀座の夜景>

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ハルちゃんは仕事に於ても、趣味のジョギングにしても万事に自らを律するストイックな性格なのだが、時々突拍子もないことを言い出し人を驚かす。

数週間前「私セーラー服が着てみたい」というご託宣があった。加瀬は「何だって!」とその言葉に耳を疑った。「それで着たまま後ろから犯して欲しい」...と宣うた。加瀬は何事にも余り動じない質なのだがハルちゃんの、この過激で大胆な発言には流石に辛抱溜まらず脳天を電流が駆け巡った。

 

谷崎潤一郎の傑作小説〈痴人の愛〉や〈瘋癲老人日記〉が加瀬の頭をよぎった。小説ではナオミや颯子によって、主人公が散々翻弄されるのだが、それらの主人公と同様に加瀬もハルちゃんに弄ばれたいと想った。加えてナオミや颯子のように奔放ではない、ストイックなハルちゃんが加瀬をどのように翻弄して行くのか、その経過を想像するだけでも只ならぬ興奮を覚えた。疼々として、蠢く欲望は抑え難く、加瀬はさっそく行動に移した。

時にハルちゃん50歳、加瀬65歳の青春真っ盛りなのだ。

通販ショップには大抵のものは揃っている。セーラー服などはごく普通の注文品なのだろう。2、3日で届いた。これを帝国ホテルで着て記念写真を撮るつもりだった。かくしてホテルにセーラー服を持参したのだが、残念なことにワインの飲み過ぎと食事による胃の凭れで思うように身体が動かず部屋に入った途端にベッドに横になってしまった。ハルちゃんも体調不良を訴えた。軽い膀胱炎様症状を呈している様子だった。

二人で暫く横になり、それから大きな浴槽に入り、入浴後はバスローブに着換え、又横になり眠ったような眠らないような妙な気分のまま過ごした。但し風呂上りにハルちゃんが一度セーラー服を着たことだけは覚えている。ハルちゃんに「こっちへ来て、セーラー服を見て」と言われ口づけを交わした。その夜は二人共不調でそれ以上進展せず、結局夜景を見ただけで終わった。もう一つハルちゃんの希望があった。それは明日の朝、皇居の周りをジョギングすることだった。加瀬はハルちゃんのカモシカ(羚羊)のような細く長い脚の躍動を直に見たかったのだが、ハルちゃんの体調が思わしくないのでこれも実現出来なかった。朧気なセーラー服姿を見たのみで終わったことと、ジョギングする脚の躍動感を観察出来なかったことは加瀬にとって大いなる青春の喪失であった。

 

<翌朝のなだ万の朝食>
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翌日チェックアウトしてから、日比谷公園を散策した。天候のせいか昨年程ではなかったがまずまずの紅葉だった。

 

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<国際フォーラムの中にあるイタリアンレストランでのランチ>

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ハルちゃんは、今のコロナ騒ぎが落ち着いたら温泉に行きたいと言った。加瀬も同感だったけれど、暖かくなったら感染状態が落ち着く可能性はあるものの先のことは分からないので「行けるかな?」と疑念を呈したところ「行けるよ!」とハルちゃんに叱咤されてしまった。

さてどこの温泉地にしようか…

日比谷駅への階段を降りるハルちゃんを見送った後、こういうささやかな幸福感がいつ迄も続くようにと加瀬は思った。柄にもないことを考えた己を憫笑しつつも、秋深まる空の下、有楽町駅に向かう加瀬の足取りは華やいだ気分に相俟って頗る軽やかであった。


















 

鏡の中,マネの絵「フォリー=ベルジェールのバー」

東京都美術館
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《フォリー=ベルジェールのバー》


このマネ晩年の傑作に生きて出会える喜びを何と言い表せば良いものか。

只々あな嬉しき哉!

ルーブル美術館近くの裕福な高級官僚の家庭に生まれた生粋のパリジャンであるマネの絵が私は好きだ。特に (1)「草上の昼食」(2)「オランピア」そして今回東京都美術館で目にすることが出来た (3)「フォリー=ベルジェールのバー」の三点は格別なものだ。

(1)と(2)の衝撃性、(3)の不可思議性は尽きせぬ魅力に溢れる。

(1)と(2)はいずれも古典の題材に触発され描かれたが、(1)が発表された当時の1863年、人々に与えた衝撃とスキャンダルは相当深刻なものだったと思われる。更に娼婦そのものを描いた1865年(2)の発表はパリの人々に(1)以上の衝撃を与えた。

 

それは110年後の1975年に初めてマネの画集を見た私にも生涯忘れ得ぬ衝撃となった。

但し「退廃と下品、見るに堪えない」と当時非難された絵画を、私は例えようのない蠱惑に満ちた傑作として観たのであった。

 

今回のこの美術館展に私は2度足を運んだが2度とも入館後直ちに他の絵を後回しにして、この絵(3)の前に立った。美術本でしか見たことがなかったあの絵が、今、目の前にある、巡り合えた奇跡と喜び。ときめきと感動。イギリスにでも行かない限りもう二度とこの絵に会うことはないのだ。全てを逃すまいと眼を凝らしながらも、結局は只々茫然と立ち尽くしていたかのようでもあった。

 

<時代背景>

ギリシャの古典絵画やルネサンスの上品さを重んじるサロン(官展)が美術界を支配していた当時、マネの露骨な生々しさを持った絵画の登場は何程悍ましいものであったのか想像は出来る。素裸の女とスーツ姿の男達のピクニック、ヴィーナスの替わりに現実の娼婦そのものがベッドでポーズを取る絵姿はサロン史上あり得ないことだった。しかし上記述べたように「下品、卑猥、堕落した恥ずべき作品」等轟々たる非難に晒されたマネの絵は皮肉なことに、人々の関心を高め、多くの若い画家達の支持を得ることになった。マネはサロン入選を目指しつつも、その伝統や格式には全く拘泥せず、自ら考える芸術の根幹をサロンへの破壊と挑戦に満ちた確信犯的な出品で試み続けた。

ボードレール、ゾラ、象徴派の詩人マラルメ等文学者もマネの絵の擁護者であった。マネはゾラとマラルメに関して肖像画も描いている。特にマラルメとは晩年まで親交を結んでおり、そのマラルメの雑感によればマネはカフェでは皆をよく揶揄っていたが、カンヴァスに向かうと恰も初めて絵を描くように激情を迸らせていたと云う。

 

マネの生きた時代、特に前半は激動の時代だった。

1848年の2月革命による第二共和制の成立、3年後の崩壊。ナポレオン三世の登場による第二帝政時代を向かえてのパリの大改造、その後のメキシコ遠征の失敗等による恐慌後の普仏戦争の勃発。マネは国民軍に入隊しパリ防衛線に加わった。当初は大国フランスの有利に進むと思われていたこの戦争は、プロイセン軍モルトケの巧みな指揮によりナポレオン3世は捕虜となり、フランスの敗北に終わった。

この頃ノーベルによってダイナマイトが発明され、プロイセン軍の破壊工作等に取り入れられたこともプロイセンの勝利に一役買ったようだ。

ダイナマイトは元々二トログリセリンという不安定な液体であったが、ノーベルは珪藻土を吸着させることで安定化、固形化させる技術に成功した。ノーベルはこの発見により

ダイナマイトの破壊力を増大させ、運搬の不安も解消した。ダイナマイトはギリシア語で"力"を意味する。ノーベルは後に各国へ売付け、工場も各地に製造し莫大な収益を上げる。

 

勝利したプロイセンは多額の賠償金とアルザス・ロレーヌ地方の割譲という屈辱的な条件をフランス政府に提示した。フランスはこの条件を承服できず降伏を拒否した。これによりパリはプロイセン軍により統治され、フランスはヴェルサイユ宮殿で他国であるドイツ帝国戴冠式を強行させられるという更なる屈辱を味わった。これに憤慨したパリの民衆は武装蜂起し、1871年に史上初のプロレタリアート独裁政権パリコミューンを樹立した。血の週間と呼ばれる悲惨な状況を招いた後、ヴェルサイユ政府軍により約2カ月で鎮圧されはしたが、短期間であったにせよプロレタリアート独裁政権の樹立はその後の革命に多大な影響を及ぼすことになる。マネはプロイセンによる祖国の敗北後疎開していたが、パリコミューンの鎮圧以降、疎開先からパリに戻って来た。

1871年以後は第三共和制へと移行し、政事情勢は相変わらず不安定だったが、数年後には芸術の都パリの黄金期、ベルエポックの始まりを迎えようとしていた。

 

<その他好きなマネの絵画>

上記の3点以外でもマネの絵画には傑作が多い。

例えば「鉄道」、「旗で飾られたモニエ通り」、「オペラ座の仮面舞踏会」等多数。

又、余り知られていないが、特に海の光景を描いたものが私は好きだ。

「キアサージ号とアラバマ号の海戦」、「ロシュフォールの逃亡」、「嵐の海」、「月明かりのブーローニュの港」等。中でも歴史を描いたキアサージとロシュフォールはたまらない程素晴らしい。

この中の一つ「嵐の海」は上野の国立西洋美術館が所蔵している。

何故マネの絵はそれ程私を惹き付けるのだろうか? 洗練されたエスプリと浪漫とエロスと多少のダンディズムに満ちているからか…  敬意を込めてボンジュール・ムッシュー・マネなのである。 云うまでもないがマネは印象派には属さない。その後、続々と現れ出る印象派とはもともと次元が違うのだ。

 

<コートールド美術館>

テムズ川沿いに建つ、サマセット・ハウス内にあるロンドン大学に附属するコートールド美術研究所が持つ美術館で1932年に開館した、世界で最も名高い美術研究機関の一つである。繊維商であったサミュエル・コートールドは、その豊かな財力と審美眼により、優れた絵画を収集し、これ等を後に国家イギリスに寄贈した。(3)はこの美術館の修復作業のため、今回日本に貸し出されることになり、我々はこの絵に遇いまみえる幸運を得た。更に「草上の昼食」の下絵も展示されていたことは大きな驚きでもあった。(1)と(2)はオルセー美術館が所蔵しているが、今回展示された「草上の昼食」はオルセー美術館にある作品の下絵と考えられている。構図はほゞ同じであるが、大きさと、何よりも此方を向いている男女の表情と色彩が違うのである。それさえ同じであったらと望むのは余りにも厚かましい願いであろう。

(3)についての様々な分析が行われている。X線撮影による科学的解析の結果、バーメイドの後ろ姿は数回に渡り、右にずらされている。また当時マネがアトリエで描いたと同様のセットを組み、マネがどのような視点で描いたかも再現されている。その結果鏡の配置によりマネの意図した構図が正確に再現された。それによると表面からの視点と右側からの二重の視点が見えてくる。それは鑑賞者を嘲笑うかのようなマネ独特の緻密で巧妙な仕掛だった。こうして鏡を使った難解な描写はほゞ正確に再現されたもののバーメイド、シュゾンの不可解な表情は永遠に解けない謎である。

 

他にこの絵画展で一つ関心を惹く絵があった。それはポール・ゴーギャンのネヴーモア(もう二度と)という奇妙なタイトルが付けられた絵である。大鴉とベッドに横たわる女、その間に居る男女、これもまた謎めいた作品である。

 

 

<フォリー=ベルジェール>

この劇場は1869年フォリー・トレヴィスの名で営業を開始し、3年後に近くにあるベルジェール通りに因み、現在の名に改称された。ダンスショー、アクロバット、象の自転車乗りや像の楽団、サーカス、カンガルーと人間の拳闘、パガニーニの亡霊、蜘蛛タランチュラなど様々な催し物が楽しめた。

これ等当時の催し物の宣伝に使われたレトロ感満載のポスターも展示してあり、実に興味深いものであった。フォリー(狂った、愚かな、酩酊した)・ベルジェール(柔らかい椅子)。人々はそこに集い、社交場と化した劇場はショーを見せ、酒を提供し、また男と女が交渉する場でもあった。香水と化粧の香りが充満した娼婦たちの闊歩する場所。堕落と卑猥、淫靡な囁きがそこかしこに聞かれる回廊施設の一角にそのバーがあった。マネは恐らく青年期に罹ったのであろう梅毒の病状が悪化し左脚の壊疽により痛みに耐えられなくなる迄足繁くそのバーに通った。マネの集大成でもあるこの絵に対する執念は凄まじく、激痛でバーに通えなくなってからはバーメイド、シュゾンその人を自らのアトリエに呼んで、バー同様の配置を設定し作品を完成させた。

作品の舞台となったこの施設は営業形態は変わったものの今でもパリの同じ場所で営業を続けている。

 

<絵画「フォリーベルジェールのバー」>

 死の前年18882年に発表されたマネ晩年の謎に満ちた最高傑作。サロンには入選したがこれも発表当時から様々な物議を交わした作品だった。

後の検証で顕かになったとはいえ、その位置にありようがないモデルの後ろ姿、モデルに話かけているかのようにみえる右側のシルクハットの男、実際の酒の瓶と鏡に映る本数の違い、さりげなく赤い瓶に書かれたマネのサイン、これら実像と鏡に映された虚像との捩じれ。何よりも絵の中心に存在する、物憂げ、アンニュイ、無感動、無表情、ホールに集まる客達を恰も見下しているような様でもあり、喧噪の中の疎外感に茫然と佇んでいるかの様でもある、バーメイド、シュゾンの永遠に説明の付かない謎の表情。

下部の金色の枠から下の鮮やかな色彩で描かれている僅かな実像以外、その殆どが鏡の中の虚像であり、劇場の中の朧げな光景である。照明と中央の大きなシャンデリア、左上のブランコに乗った緑色の足。2階席で何事か囁いているかのように見える男と白いドレスの女、それらの虚像と鮮明に画れた実像部との対称性。モデル、シュゾンはその華やかなパリの虚像を鏡の中に見ているのだろうか。

 鮮やかな色彩のオレンジとクリスタルグラス、水差しグラスの二輪の薔薇の花等は溜息が出るほど美しい。この部分を切りとっても類稀れな静物画の傑作と云えよう。

これ等鮮やかで僅かな実像部とは対照的に、絵の殆どを占める鏡に描かれた、謂わば虚像部の朧げな光景の実像と虚像の中央に佇むバーメイド、シュゾンの表現し難い表情。世界は結して調和しない現実でしかないのだ。

娼婦達の化粧の匂いと堕落の叫び声が漂う場所。オレンジとバーメイドとの象徴性。頽廃、嫉妬、情慾、慾望渦巻く当時のパリの風俗を象徴する光景をマネはそのバーの一角から独特の洒落た感覚と皮肉めいたタッチで見事に一枚の絵に切り取った。観るものに困惑を与えるべく画れた巧妙な仕掛けは人間の肺腑を抉り取り、絡み合わせたように複雑で難解だ。このような精神の懊悩を触発するような晦渋な作品を目にしたとき、我々は妄執を放擲し、マネ渾身の一作を只黙然として鑑賞するしかない。

1882年の絵の完成後、壊疽の進行で左脚を切断。それによる予後不良でマネは翌年1883年51歳で死去した。

 

フランスの思想的、哲学者ミシェル・フーコーは1971年のチェニジアで講演した録音を基にした「マネの絵」という著作の中で次のように述べている。

私を魅了し、私の気を完全に惹いてしまうものがあります。例えばマネです。マネにおいては全てが驚きです。

例えば醜悪さがそうです。醜悪さのもつ攻撃性です。

鑑賞者に可動性を取り返したことのうちに、マネの決定的な豊かさがあります。

「フォリーベルジェールのバー」はマネの全作品を要約して見せてくれるようなものです。マネの絵の最後の一枚でもあり、最も観るものを混乱させる作品の一つです。

それから彼自身が自分の絵画について何も語らなかったというような説明のつかなさですね。マネは絵画においていくつかのことをしましたが、それ等のことに比べれば「印象派」たちは完璧に退行的でした。

マネは絵画的表象の技法と様式を変えた人であり続けています。

 

 

 

 




 

御殿山庭園と高杉晋作

今秋(2020年)初めてこの庭園を見に来た。豊かな自然に恵まれた散歩スポットで多くの人達の憩いの場になっている。広さは約2000坪あり、茶室などもある池泉回遊式の和風庭園である。近くには原美術館やマリオットホテル、セルビア大使館がある。

京急蒲田線で品川の次で降りる>f:id:gaganbox:20210113220116j:image

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<北品川は小さな駅である>
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<駅近くの歩道橋を渡るとトラストタワーが近づく。新八ッ山橋を左に曲がり、八ツ山通りを向かう>

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<御殿山トラストシティ>
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<このトラストシティーを入るか、少し先のマリオットホテル内を入れば御殿山庭園に行ける>

<東京マリオットホテル>

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原美術館、緑の庭園の美しい現代美術館として1979年開館した。カフェも併設されていたが、2021年1月11日41年間の歴史に幕を閉じた>

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<池泉回遊式の和風式御殿山庭園、紅葉最盛期の時期の前後は分からなかったが、それなりであったかとでも云おうか>

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<御殿山通り。秋の日の余りの暖かさに桜が僅かに咲いていた>

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御殿山公園はその名の通り、将軍家光の鷹狩りのなどの為に御殿が建てられたことからその名がる。
おそらく寛永の年(1661∼1673)桜の植樹が行われ、享保年間8代将軍吉宗(1716~1745の頃から花見風俗を齎し江戸有数の名所となっていった。万延元年(1860)の頃井伊直弼により、この桜の名所地に英国、米国、阿蘭陀、仏蘭西の公使館の建設計画が立案された。
これに対し東海道品川宿からは、御殿山は高台にあり軍事的要衝地であること、桜の名所であること、混雑により品川宿での外夷との問題が起こることなどから計画に憤慨、建設反対の意見書を提出した。しかし幕府は翌年(1861)攘夷派の襲撃に備えるためもあり各国外国との建設合意を受諾し、まず御殿山東南の英国公使館の建設が始まった。
ここに事件が起きる。長州藩高杉晋作は横浜で外国公使館の襲撃を計画するが、土佐藩士に漏れたことで、藩主毛利定広の知るところとなり、藩主の説得に応じ中止、自らは謹慎処分の身となった。この謹慎中に彼は国家の御楯となるべく御楯組を結成、血盟書を作成した。
血盟書作成の約1ヶ月後の文久2年(1863)、東海道品川宿の妓楼旅籠屋(土蔵相模)に集結した高杉晋作久坂玄瑞井上聞多(馨)、伊藤春輔(博文)を始めとする長州藩士13名は夜間焼玉を持ち、御殿山に向かい、外堀と柵を超え公使館に侵入、板や建具類を積み重ね焼玉に火を付けほゞ完成していた幕府費用により建設された絢爛豪華な英国公使館を全焼させた。大凡の犯人の目星は付いていたものの、庶民の覚え悪く、犯人逮捕は幕府の本心でもなかったことから事件はうやむやのままとなった。

高杉と久坂は芝浦の芸妓で燃え盛る公使館を眺めて酒盛りをしていたという。

 

この話は後年明治政府を指導する立場となる、伊藤博文山縣有朋の伝記や回顧録に当時の模様が語られ、「あれは我々がやった」という自慢話から明らかになったようだ。

 

後、久坂は禁門の変で倒れるが、高杉は潜伏していた福岡で1人決然と立ち、赤間関に戻った。各諸隊の反対を押し切り、馬関の藩支所に朝駆けする。この時共に付いてきたのは伊藤春輔を始めとする数十名であった。所謂功山寺挙兵である。この挙兵が幕府に恭順を示していた藩政を倒幕に転換させ維新への大回転とならしめる。これを征伐するため幕府は15万人の大軍を長州四境へ投入するが、対する長州軍は僅か4千~4千五百人の兵数で対抗した。

しかしこの圧倒的不利な状況にも関わらず

高杉晋作村田蔵六の指揮により、四境悉くで幕府に打ち勝った。長州一藩のみで大軍の幕府軍を破ったのである。まさに奇跡と云える。幕府の権威は失墜し、慶喜は一旦江戸に逃げ帰り、やがて京都で大政奉還を迎えることになる。

 

長州の風雲児晋作は四境戦争の終焉も間近に迫った慶應3年(1867)、春も終わりに近い頃肺結核により逝った。

 

諱(いみな)は春風   享年29であった。